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【Butter-Fly】 -君の知らない物語 – 夏の庭 最終話 – その後
バタフライ効果( butterfly effect )は、初期条件のわずかな差がその結果に大きな違いを生むこと。チョウがはねを動かすだけで遠くの気象が変化するという意味の気象学の用語をカオス理論に引用した。
街中を散策中に視界をよぎった一頭の蝶。鼻先で香る陽の匂い。風に乗って散るのは七色の鱗粉だ。
「何だあれ?」
あり得ない色だった。
「別世界から客人でしょう。気にするほどではありませんよ」
「何だよ、別世界のまれびとって」
「言葉通りの意味ですよ」
いつかのどこか、遠い遠い時の彼方のその最果て。あるいは今より昔、原初の胎の奥底で。因果の境——その羽根を揺らす蝶。
長い長い抵抗とは裏腹に長い長い試行錯誤は常に徒労で終わった。延々と巻き戻されるエンディング。消費されつづける世界はやがて可能性を失い行き詰まった。窒息した世界に「未来」などない。それでも諦めきれず彼らを追って【世界】を越えた。何度も。そう、幾千万では到底足りぬほどに。
脳裏をよぎったのはそんな「どこか」の「誰か」の記憶。自然と声に力がこもる。
「羽ばたくならば」
突然の突風。か弱き蝶は片羽根を裂かれて地に墜ちる。
「ここではないどこか。今ではないいつかで」
もはやぴくりとも動かなくなった蝶を一瞥してからほんの少し歩みを早める。その軀から流れ出る因果の糸を振り切るように。
ようやく取り戻した唯一無二の手を引いて。
【あなたが私に言うべきは】
「おれが死んだら、お前、ちゃんと泣けよ。でもって、最低限だけ残してあとは全部捨てろ」
何の前触れもなく爆弾を投げ込んでくるのは彼の特技か趣味なのだろうか。
「藪から棒になんですか」
「藪から棒にって言うか、お前、自分で言ってたろ」
自分は何事においても自由である。そうありたい、と。
「だからあなたを忘れろと?」
死者への記憶を想いを引きずることなく前へ進めとでも言うのだろうか。
「何も全部忘れろなんて言ってないだろ。最低限以外を捨てろって言ってんだよ。ああいうのって重いんだろ?」
「言いたいことはわかりますが、無理な相談ですね」
何せその最低限以外が存在しないのだから。正直に答えればまさかそんな反応が返ってくるとは夢にも思っていなかったのだろう。ややつり気味の目を見開き、口を半開きにして絶句していた。
「いや、それはねえだろ」
いくらなんでも強欲が過ぎる。
「あなたこそどうして私に『最低限以外』が存在すると思ったのですか」
まったくもって心外である。
「そもそも何を思ってそんな馬鹿なことを」
「馬鹿なことって言うか、お前が自分で言ってたじゃねえか」
特に理由があったわけではなく、ただ、ふとした拍子に思い出したのだ。
「お前執念深いだろ。先に言っとかないといつまでも覚えてそうな気がしてよ」
一応、本人なりの善意であったらしい。見当違いの善意であったが。
「あなたが私に言うべきは忘れろ、ではなく忘れるな。ですよ」
「覚えてたら引きずるじゃねえか」
「逆に聞きますが、あなたは私がその程度のことに引きずられると本気で思っているのですか?」
「………」
決して短くない沈黙の末、マサキは頭を抱えた。もしかせずとも自分はとんでもなく恥ずかしい台詞を言ってしまったのではなかろうか。
羞恥で今にもシーツに潜り込みそうになるマサキを腕に閉じ込め、シュウはくつくつと喉を鳴らす。
「あきらめなさい。あなたを忘れる理由など私には存在しないのですから」
そもそも閨事の直後に何を言っているのやら。
「もう眠ってしまいなさい。疲れているからつまらないことを考えてしまうのですよ」
「つまらないことか、これ?」
「少なくとも私にとってはつまらないことですね」
たとえそれが他でもない本人の口から出た言葉であったとしても。
「それに前も言ったでしょう。私があなたを連れて逝くまであなたには生きていてもらうと」
閉じ込める両手に自然、力がこもる。
「お前、ほんと強欲だな」
けれど執着の対象である青年には怖れも嫌悪の影もない。ただ無邪気に笑うだけだ。
「そうですよ。知らなかったのですか?」
「んなわけねえだろ。今さらだ。だったら——離すなよ?」
「喜んで」
あなたがそれを望んでくれるなら。
【ある夜の独り言】
前々から不思議だった。目の前で当たり前のように寝息を立てている男は何を思って自分を抱くのだろう。望めばおよそだいたいの人間が欲するだろうものを手に入れられるはずなのに、手にした執着の対象が年下で小生意気な青年一人とはあまりに矮小過ぎではなかろうか。加えて自分は女ではない。抱き心地とて悪かろうに。
「いや、重要なのはそこじゃないんですってば」
そんなマサキに器用にも羽根で頭を抱えて見せたのは男の使い魔だった。
甚だ理解し難いことに自分という存在は目の前の男にとってそれはそれはうらやましく妬ましいかぎりの存在であるらしい。だからどうしても欲しかった、と。
「お前の頭の中の価値基準は一体どうなってんだ」
あの時は真顔で一刀両断してしまった。
「至って正常ですよ」
そして、真顔で即答された。
マサキは本気で頭を抱えた。正常な価値基準で判断した結果がこれなのか。何かしらの糸とネジが一本切れて飛んだ結果ではないのか。だが、確かに以前も同じようなことを言われたのだ。うらやましい、妬ましいと。諦観の黄昏をたたえた双眸は寂しく、そしてひどく恐ろしい色をしていた。
「お前、ほんと面倒くせえよなあ」
気づけばその冷たい頬をなでていた。
正直、怖い。
求められることが、ではない。
いつか置いて逝くかもしれない。その可能性が怖いのだ。いろいろ面倒くさいこの男を世界に「独り」残してしまって、果たして自分は未練なく逝けるだろうか。そして、とても執念深いこの男はおとなしくそれを見送るだろうか。
「多分、おれのほうが先に逝くぞ。ろくな死に方もしねえだろうし。お前、変な仕返しとかするんじゃねえぞ?」
何せ意地と執念で破壊神すら木っ端微塵にしてしまったのだ。そんな人間に「報復」の理由を与えた日にはどんな惨事が起こったものか。
一度問うた。もしその時が来たら道連れにしたほうがいいかと。本心では道連れになどしたくないと吐露したマサキに男は言ったのだ。
「では、私があなたを連れて逝きましょう。それなら文句はありませんね?」
だから、それまでは共に生きてもらう。
目の前の男は嘘をつかない。できない約束もしない。だから、きっと自分を連れて逝くのはこの男だ。そう、思う——けれど、たぶん「結末」は違う。だってもう決めてしまっているのだ。
【世界】と【誰か】を天秤にかけた時、自分が一体どちらを選ぶのか。あれはヤンロンに問われたときだ。マサキは【世界】だと即答した。マサキ・アンドーは魔装機神サイバスターの操者だ。なら、選択肢などあってないようなもの。
目の前の男は——シュウは「宣言」通りマサキを連れて逝くだろう。けれど仮にそれが【世界】と天秤にかけられたならマサキはその手を決して取れない。取らない。結果、互いに刃を向けることになったとしても。
「面倒くせえなあ……」
この身を連れて逝くなら決して離すな。そう言ったのは他でもないマサキ自身だ。現実に目をつむってそう願ってしまった。それでも。
「おれは……、生きているかぎりサイバスターの操者だ」
そう。命あるかぎりこの「誇り」は譲れない。
まるで壊れ物に触れるようにそっと手を伸ばす。夜目にもはっきりとわかるロイヤルパープル。初めて触ったときは本物のシルクかと思った。
「ごめん」
それが声に出せた精一杯。
「……ごめんなさい」
それはある夜の独り言。
【ハロウィン】
つばの広い真っ黒なとんがり帽子に真っ黒なローブ。黒い尻尾には真っ赤なリボンがひらひら揺れている。
「また、ずいぶんと可愛らしい『魔女』ですね」
「笑ってんじゃねえ。おれは男だぞ」
「失礼。男性であっても『魔女』というのですよ」
魔装機神隊が正式に発足した年の一〇月。プレシアからゼオルート経由で商店街会長に伝わった「ハロウィン」はわずか一カ月の準備期間を経て商店街の一大イベントと化した。
特に近隣の洋菓子店と手芸店はハロウィン特需で嬉しい悲鳴どころか嬉しい断末魔状態だったらしい。数年経った今ではラングラン以外でもハロウィンイベントを開催する都市が増えているそうだ。商店街組合の横の繫がりは国境を越え、それは長く太かったのである。
話を戻そう。妹にせがまれ兄妹そろって「黒猫の魔女」を装う羽目になったマサキは、今の今まで近所の子どもたちを引きつれてゼオルート邸がある区画の家々を回っていたのだった。
「悪趣味だぞ、おまえ」
かご一杯のお菓子に歓声を上げる子どもたちをそれぞれの家に送り届けようやく一息ついたと思った瞬間、暗がりから現れた仮面の死神に路地裏へと引きずり込まれたのである。
まるでどこぞの絵画から切り取ってきたかのようだ。それ自体がひとつの芸術品に等しい仮面の下では見慣れた顔が満面の笑みをたたえていた。
「Trick or Treat」
「……お前、わかってて聞いてるだろ」
子どもたちを引率して家々を歩き回っていたマサキは一切お菓子を受け取っていない。お菓子のかごはすべて子どもたちのものだった。となれば、選択肢はひとつ。
「むかつく」
このまま好き勝手にされるのは癪に障る。マサキは一息つくと同時に目の前の死神の襟首を引っ掴むと遠慮なくその頬に噛みついた。
「お前なんぞにやるお菓子はねえんだよ。ざまあみろ!」
「……あなたときたら」
満足げにゆらゆらと揺れる真っ黒な尻尾。聞けば本物の猫の尻尾をキャプチャーしたらしい。プログラムしたのはもちろんセニアである。
「Trick or Treat!」
お菓子をくれなきゃ噛みつくぞ。
「恐ろしい魔女がいたものですね」
死神は潔く白旗を上げる。
「降参です」
だから、素直に連れ去ることにしましょう。
「は?」
予め転移の魔方陣を用意していたのだろう。気付いた時にはグランゾンのコクピット。呆然とする暇もない。
「お菓子をくれないなら、仕方がありませんね?」
今日は年に一度のハロウィン。なら、一晩くらい一匹の「魔女」が「死神」の手元に迷い込んでしまっても不思議はあるまい。
「…………明日には帰せよ」
「ええ、あなたが素直でいてくれたなら」
死神は愉快げに笑った。
【犯人はあなただ】
暇つぶしに二時間ドラマの再放送を見ていた時だ。
「犯人はわかっているのですよ。ただ、動機がわからない」
「いや、何でもう犯人わかってるんだよ。始まってまだ一〇分もたってねえぞ」
「なぜと言われても冒頭ですでに自供していますからね」
「冒頭っていつだよ」
被害者を発見した時だと言えばマサキは大仰に眉をひそめてみせる。
「ほんとに冒頭じゃねえか。つか、いつ誰が自供なんかしてたよ」
もっともな疑問である。だが、シュウは飄々と言ってのける。
「被害者を発見した時、『彼』だけが真っ先に憲兵を手配したでしょう?」
あの時点ではまだまだ誰にも被害者の生死はわからなかった。なのに『彼』だけが医療関係者ではなく憲兵を呼んだ。それは治療が無意味であると知っていたからだ。
「……あ」
「肝心の動機についてですが相続争いか怨恨か。安直過ぎて逆にわからないのですよ」
「いや、多分、遺産絡みの怨恨だろ。そもそもこれ二時間ドラマだぞ?」
込み入った設定などあるはずがない。
このドラマの第一被害者は一代で巨万の富を得た大富豪。正妻の他に愛人が三人。息子は愛人たちが産んだ男三人の異母兄弟。娘は一人だが養女で大恩ある恩師の忘れ形見ときた。絶対に人の恨みを買っている。むしろ恨みを積み上げてきた人間でなければおかしい設定だ。
「そういうものですか?」
「そういうもんなんだよ。お前がいつも読んでる推理小説並みのクオリティを二時間ドラマに求めるな」
「しかし、二時間もあるのですからもう少し手の込んだものが作れませんか?」
どうしても納得できないらしい。その双眸の奥にはあからさまな不満が明滅している。
「あのな、毎週だぞ。毎週。そんな短期間でほいほい作れるわけないだろ。予算だってあるんだから」
そう、予算。そしてタイトなスケジュール。一定値以上のクオリティなど求められるわけがないのだ。
「残念です」
「お前はもう素直に推理小説でも読んでろ。一〇〇〇ページ超えとか頭おかしいんじゃねえか」
先日、シュウが購入してきた小説はほぼ鈍器といっても差し支えない分厚さでもってマサキの常識を粉砕した。せめて分冊にすればよかったものを執念で収めた狂気ならぬ凶器の一冊。聞けば作者は著名な民俗学者らしく資料としても十分通じるレベルの情報量が詰まっているらしい。
「ったく。どいつもこいつも加減ってもんを知りやがれ」
世間一般の人間にはだいたいのことはほどほどでいいのだ。ほどほどで。
その後、表面上は無表情のまま内心でちょっとだけでしょげている【総合科学技術者】をなぐさめるべく、マサキはため息をつきながらタブレットを手に某書店のロングセラーランキングをチェックするのだった。
