ファーストエイドキット

短編 List-2
短編 List-2

 研究の虫はここ三日間研究室にこもったまま出てくる気配がないという。予定ではあと二日はこもっているそうだ。めずらしく手土産を持ってきたというのに手持ち無沙汰になってしまったマサキは、かしましいローシェンを相手に暇をつぶすことにした。
「手土産だなんてマサキさんにしてはめずらしいですね。一体何を持ってきたんですか?」
「ファーストエイドキットだよ」
「はい?」
「今までのやつより容量デカいのが出てたからよ、買ってきたんだ」
 任務に必要な装備などは基本的にラングラン政府のバックアップを受けているが、使い捨ての下着やタブレット型歯みがき粉などの細かい日用品は各自が自腹を切って購入しているのが魔装機神隊の常であった。
「えぇ、ファーストエイドキットまで自腹なんですか。さすがにそれは装備品としてカウントしてもよくありません?」
 チカの提案はもっともだ。
「そりゃあそうなんだけどよ、支給品だけじゃあ心許ないから各自追加で購入してるんだよ」
 急な病気や怪我をした人間を助けるためにとる最初の行動をファーストエイドといい携帯できる応急処置キットをファーストエイドキットという。端的に言えば救急箱である。
 魔装機神隊のファーストエイドキットのベースはラングラン軍のものだが、そこに魔装機神隊内で必要と思われるものを追加し、さらに個々で必須となるものを追加購入していたのである。
「ちなみにマサキさんは何を追加購入してるんですか?」
「携帯用の食料と着替え。あと痛み止めとか?」
 他は『遭難』時に必須と思われるもの一式である。
「……ああ、迷子」
 日本を目指しながら器用にも日本だけを回避して地球を二〇周した【方向音痴の神様】である。なるほど、遭難時の必需品は任務平時を問わず常に補充しておくべきだろう。
「それで、支払いしてるときによ」
「はい」
「そういや、あいつもこれ持ってんのかなって」
 十指に及ぶ博士号を持った沈着冷静と傲岸不遜の化合物。不測の事態など指先一つで難なく解決してしまいそうな男がファーストエイドキットを購入している様などマサキにはとても想像できなかったのだ。
「まあ、確かにイメージしづらいでしょうねえ」
 使い魔であるチカですら主人のそんな姿は想像し難いのだ。
「だから、まあ、何て言うかよ。持ってなさそうだからついでに買ってみた」
 苦笑する。どうしてこんなことをしてしまったのか、マサキ自身よくわかっていなかったのだ。
「でも、どうせいらねえだろうから、このまま持って帰るわ」
「いや、ちょっ、ストップ、ステイ! 早まるのはナシでお願いしますっ‼」
 その刹那、目いっぱい羽を広げてチカは叫んだ。否、もはや絶叫である。あまりの迫力にマサキは口を開けたまま絶句してしまう。
「せっかく持ってきてくれたわけですし、お持ち帰りはナシ。ナシでお願いします!」
 手土産などめったに持ってくることのないマサキがめずらしく善意で購入し、わざわざ持ってきてくれたのだ。それを受け取ることなくむざむざ見送るなどとんでもない。チカは必死にすがりついた。こんな恐ろしい失態を知られた日には木っ端微塵どころか分子分解されてしまう。
「お、落ち着けよ。わかった、わかったから。持って帰らねえよ」
 理由は理解できないまでもとんでもない不運に見舞われるであろうことは察してくれたらしい。マサキはチカをなだめながら手にしていたファーストエイドキットを床に置いて素直にうなずいた。
「た、助かったぁ……」
「そんな大げさにすることかよ。変だぞ、お前」
 そのままリビングのテーブルに転がったチカにマサキは呆れるばかりだ。
「マサキさん、知らぬは亭主ばかりなりって日本語知ってます?」
「は? 知るわけねえだろ、そんなもん」
「少しは自分の無知を恥じなさいよ。このすっとこどっこい!」
 予想はしていたものの自身満々なマサキにチカは器用にも羽で頭を抱えてしゃがみ込む。
 マサキがどうしようもなくがさつで鈍感であることは常日頃の言動を見れば明らかであったが、それにしてもこれはないだろう。あれだけ主人の執心を受けておきながらいまだその片鱗にすら気づかないとはどういうことだ。
「ここまでくるともう一種の呪いなんじゃないですか?」
 絶対にそうとしか思えない。主人は何て厄介な相手を捕まえてしまったのだろう。
「絶対選択肢間違えてますよ、ご主人様」
 とはいえ、こちらはこちらで蓼食う虫も好き好きのど真ん中を現在進行形で驀進中である。
「破れ鍋に綴じ蓋……」
「さっきから何ぶつぶつ言ってんだよ、お前」
「おバカさんが鈍感すぎてもう匙を投げたいって話ですよ。このままだと進む話も進みませんし、いっそご主人様呼びに行きます?」
 真性の学徒である主人にとって研究の邪魔など万死に値する蛮行であるがそれも相手次第。呼びに来たのがマサキであれば天の岩戸も自ら開くだろう。
「別に呼びに来なくともここにいるのですが」
「あー、はいはい。そうですね、ここにいますよね。ほんと世話が焼けるんですから、うちのご主人様は」
 タイミングが良いのか悪いのか。やれやれと大げさに頭を振って見せるチカにマサキは哀れみと諦観がたっぷりこもった声音で非情な現実を告げる。
「気づいてねえだろうけど後ろにいるぞ、シュウの奴」
「そうですね。今出てきましたから」
 ひとりサラウンドを特技とするチカの絶叫はもはや一種の音波兵器であった。シュウはチカを掴むと同時に研究室へ投げ込み即座にロックをかける。慈悲など無用。
「先日まで任務だったと思うのですが、何かありましたか?」
 流れるような動作で自らの使い魔を隔離したシュウにマサキは一瞬口ごもったが、しばらくして意を決したように口を開く。
「……これ、持ってきたんだよ」
「モンベール社のファーストエイドキットですね」
「今使ってやつより容量デカいのが出てたんだよ。それで……、お前、何か持ってなさそうなイメージだったから」
「わざわざ買ってきてくれたのですか?」
「……悪いかよ」
 慣れぬ気づかいが自分でも恥ずかしかったのだろう。いつの間にか口がへの字に曲がっていた。
「実際、お前、持ってんのか?」
「不測の事態に備えるのは当然のことです。ですが、モンベール社のものを購入したことはありませんでした」
 見せていただいても。尋ねられればマサキに拒否する理由はない。半ば突きつける勢いで手渡す。
 リビングのテーブルに中身を広げれば、一つ一つを手に取りシュウはどこか楽しげに口許を緩めて見せる。
「何かいいやつあったのかよ?」
 この男がこんな満足げな表情をするのはあまり見たことがない。
「ええ、とても」
「そっか。……じゃあ、それやるよ」
 正直、半分は無駄になるかと思っていたのだ。
「では、このお礼は次の機会にでも」
「お前ほんと律儀だな。いらねえよ、んなもん」
「でしたら、私が使っているものを差し上げますよ。モンベール社のものとは細かい部分が違いますから、きっとあなたの不足を補えるでしょう」
「お前、ほんと機嫌いいな」
 新しいキットがそんなに嬉しかったのだろうか。
「そう見えますか?」
「見えるっつうか、どこからどう見ても上機嫌じゃねえかよ」
「そう見えるのはあなたくらいですよ」
 正直、マサキにはシュウの反応が不思議でならなかったが、手土産が無駄にならなかった点は素直に喜んだ。
「そういや、研究で忙しかったんじゃねえのか?」
 チカの話ではあと二日はこもっていると聞いていたのだが。
「早めに一区切りついたので休憩を入れることにしたのですよ。ちょうどいい時間帯ですし、食事に行きませんか?」
「別にいいけどよ……。お前、何か気味が悪ぃぞ?」
 普段の涼しげな表情とのギャップにちょっとした寒気すら覚えてしまう。だが、今優先すべきは悪寒への対処ではなく空腹の解決である。一足先に外へ出たシュウを追いマサキもまた足早に玄関を出る。
「そりゃあ舞い上がりもするでしょうよ」
 研究室に隔離されてしまったチカは脱力感に天井を仰ぐ。
 贈った本人にその自覚がないだけであれは立派なプレゼントなのだから。そして主人にとってはめったにない好きな子からのプレゼント。
「破れ鍋に綴じ蓋……」
 本当に世の中は上手くできているものだ。

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