背負うべきもの、差し伸べる手

長編・シリーズ
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ローシェンは沈黙する

 チカの主人はとても優秀な人間だった。けれど同時に臆病で卑怯で冷酷で傲慢なひどい男だった。
 主人は常に与える側の人間だった。王族だったのだ。生まれながらの責務によって民を治め助く。ゆえに高みにあって民を見下ろす地位にいた。しかし、今の主人はもう王族ではない。王位継承権を放棄し紆余曲折を経て今やラ・ギアス全土に指名手配される背教者となった。
「それでもご主人様はご主人様なんですよね」
 地位を捨て国を捨ててなお主人は主人のままであった。それほど優秀な人間だったのだ。
「まあ、気持ちよさそうに」
 チカが羽を休めているのはソファの肘掛けだ。ソファには新緑の髪が鮮やかな青年が口を半開きにして眠りこけている。
 喧嘩になったそうだ。きっかけはささいなことだったという。だが、相手はヤンロンだった。ただの口げんかはあっという間に大火となった。殴り合いにこそ発展しなかったもののマサキは制止に入った仲間たちを振り切りシュウが有するセーフハウスの一つに駆け込んだ。無人であることを期待していたらしいが、生憎、新しいプログラムを思いついたばかりの主人は腰を据えると最低一〇日は動かない。マサキの期待は裏切られた。
「任務が続いていたなら疲労もたまっているでしょう。少し休みなさい。そうすれば頭も冷えるでしょう」
 紅茶とは別にストックしていたハーブティーをマサキに飲ませシュウは書斎へ戻った。そう、マサキの記憶ではそうなっている。
「今は忘れなさい。それまでもあなたが背負う必要はない」
 それほど頻繁にあることではないが主人はマサキの記憶に手を加えることがままあった。悪意からではない。善意からだ。マサキの心身にかかる負担をおもんばかっての行為だったがチカはそれが逆効果ではないかと思うことがある。今回がそうだ。
「忘れることは罪ではない。生きていくために忘却は必要です」
 だから、主人はマサキの記憶を閉じた。そう、閉じただけ。だが、閉じられたものはいずれ息を吹き返す。根本的な解決には決してならない。
「全部背負ったままじゃ壊れちゃうじゃないですか。だから、ちょっとくらい忘れても大丈夫だと思うんですよ。でも、忘れたままじゃ駄目なものもあるじゃないですか」
 忘れたままでも生きていける記憶もあれば、強引に思い出してでも乗り越えなくてはならない記憶もある。けれど閉じられたままでは乗り越えられるかもしれない可能性までが閉じられてしまう。
「もうやめませんか、ご主人様?」
 そう進言したこともある。
 主人のそれは確かに善意であったが傲慢で残酷な【支配】を含んだ善意であった。主人は生まれながらに支配する側の人間であったのだ。
「あなたはこのままマサキが壊れるのを黙って見過ごせと?」
 そうではない。けれど主人からすればそう見えてしまうのだろう。だが、主人とて理解しているはずなのだ。自らの行為がマサキの逆鱗に触れるものであると。実際、閉じられた記憶を取り戻したなら間違いなくマサキは自分に激怒するだろうと主人はチカに言っていた。それなのに止めることができない。
 主人は傲慢で冷酷で卑怯でけれどひどく臆病だった。それが何であれ一度手にしたものを失うことをひどく嫌う。そしてマサキは今や主人の唯一だ。干渉が過度になるのもむべなるかな。
 とはいえマサキは魔装機神サイバスターの操者である。その責務は過酷だ。だが、それがマサキの選んだ道なのだ。ゆえに主人は極力それを静観している。見るにたえず手を出してしまうこともままあるが。
 けれど一度その責務の枠から外れてしまえば主人はすぐさまマサキを抱き込んで与えられるものは可能なかぎりみな与えようとする。不足の苦痛がマサキを苛まないようように。誰にも何にも奪われないように。
「さすがにちょっと引かれてるんですけど言っても通じないんですよねえ」
 主人は王族だった。物心ついたときから常に与える側の地位にいた。それが務めであったからだ。
「マサキさん、自分で獲得しにいくタイプですしもともと物欲薄いほうですからそこは絶望的に噛み合わないんですよね」
 半ば一方的に与えられることに困惑するだけでなく、時折、怯えの色さえ垣間見えることがあるのだ。
「まあ、生まれ育った環境が違うから仕方がないといえば仕方がないんでしょうけど」
 あまりに一方的に与えられるものだからチカは何度かマサキに相談されたことがある。
「あいつほんとに大丈夫か。何でもかんでもこっちによこそうとしてよ。いつか何もかもなくなるんじゃねえか?」
 それだけは絶対にない。チカは断言した。主人は強欲だ。この世のおよそだいたいのものを手に入れられるだけの実力がある。そもそもマサキが口にする「何でもかんでも」は主人にとって取るに足らないものばかりなのだ。
「だってねえ、『あなたがいればだいたいすべて足りてしまう』って言っちゃうくらいですし」
 他人に与えてばかりいないで少しは自分の欲しいものも買えとマサキにどやされたとき、シュウは飄々とした表情でそう言ってのけた。あれにはチカでさえ二の句が継げなかった。
 マサキは自分に「与えて」ばかりの主人がいつかそのせいで何もかも失うのではないかと危惧しているがそれはあながち間違いではないだろう。
 もしも魔装機神操者としての務め以外の理由でマサキが果てることがあればその瞬間に主人はすべてを失う。そして、その可能性が今チカの目の前にある。
 いつか向かい合うべき記憶を閉じられ何も知らぬまま眠る青年。だが、こんなことがいつまでも続くはずがない。閉じられつづけた記憶は必ずどこかで崩壊する。けれど主人はそれが必要だと判断すれば何度でも繰り返すだろう。一時の安寧を「与える」ために破滅の長針を回して。
 一度目は受け入れられなかった。だから再度進言しようと何度も思った。けれどそのたびにあの言葉が脳裏をよぎるのだ。
「あなたはこのままマサキが壊れるのを黙って見過ごせと?」
 途端、喉は引きつりくちばしは固く閉じられ声を上げることができなくなる。恐ろしいのだ、チカも。
 いつかは乗り越えなくてはならない。記憶を閉じたままではその可能性さえ閉じられてしまう。けれど、けれどけれど、もしかしたら思い出さずにすむかもしれない。それにもし乗り越えられなかったら。万が一の事態が起こってしまったら。運命が絶望の秒針を押してしまったら。
 マサキはもう二度とこちら側には帰ってこない。
「ごめんなさい」
 だから、臆病なローシェンは沈黙を選んだ。それ以外の方法を無力で愚かなローシェンは思いつかなかった。
「ごめんなさい」
 そうして記憶は今も閉じられたまま、再び息を吹き返す瞬間をただ静かに待っている。

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