背負うべきもの、差し伸べる手

長編・シリーズ
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その手は冷たい真綿のよう

 違和感はあった。ところどころがかみ合わない記憶。不自然な空白。原因は忘却。生きていくために不可欠なもの。けれどそれは一方で恐怖そのものでもあった。
 忘れてはならない。何があろうとたとえ血を流し我が身を損なおうとも決して忘れてはならないもの。執着すべき断片、死守すべき記憶。
 人間はすべての記憶を背負って生きていくことなどできない。それほどに脆いのだ。だからこその忘却。だが、忘却すべきいびつこそを生きるよすがとする人間あるいは不退転の意をもって一切を背負う覚悟を決めた者。彼らにとって意図せぬ忘却は紛れもない一つの恐怖であった。
「……悪気はねえんだろうけどよ」
 なまじ有能であるだけにあの男は時に平気で倫理に触れる。結果を予測できないわけでもないだろうにたまに情理を解さない言動を取るのだ。今回もおそらくそれだろう。
 本人の意図せぬところで記憶に手を加えられた。それは人格という一つの尊厳に対する明らかな冒涜だ。それをあの男が知らぬはずはない。にもかかわらず実行したということはそれだけの理由があったからだ。
 できれば本人の口から理由を聞きたい。だが、あの男がそうやすやすと口を割るとは思えない。人を煙に巻くのが特技のような男だ。正攻法ではいいようにあしらわれて終わるだろう。ならば矛先を変えるのみ。
「それは……、言えませんよ。あたくしがご主人様に叱られるじゃありませんか」
 どこか怯えた様子のあるチカにマサキの不安はいよいよ増していく。何がそんなに恐ろしいのだ。忘却させられたのはマサキの記憶であってチカのそれではないというのに。
「何なんだよ、お前ら……」
 なぜそれほどかたくなに口をつむぐ。
「なあ、おれは何を・・忘れたんだよ。教えろよ!」
 思い出せない。だが、確信は得た。それはきっと忘れてはならない——マサキが背負うべきものだ。魔装機神操者の責務とともに。
「チカっ‼」
「駄目です、言えません!」
 叫び飛び立つ。捕まえようと伸ばした手をすり抜けてローシェンは部屋の奥へ。走って追いかける。だが、中途半端に開いていた扉の向こうから伸びてきた腕がマサキを阻む。
「何事ですか、騒々しい」
「シュウ!」
「今思い出す必要はないでしょう。時がくれば自然と思い出しますよ」
「何でそれをてめぇが決めんだよ。おれの記憶だぞ⁉︎」
 そうだ。それは自分の記憶だ。なのになぜ他人にその必要性を判断されなくてはならない。
「あなたが善良だからですよ」
「は?」
「善良な人間には少量の毒でも命の危険をともなう。あなたが忘却した記憶はそういう類いのものです。今すべてを思い出してもあなたの心身を損なうだけだ。何の利にもならない」
 それは紛れもない善意だった。一方的な支配をともなう善意。支配されることを何より厭う男は他者を支配することに何の違和感も感じてはいなかった。
 すっと頭が冷える。まるで善意で悪逆をなす幼子を見ているようだ。人間の感情の機微すら計算に入れて状況を整えてみせる頭脳を持ちながら、どうして。
「それでも……」
 それはマサキの意に反して忘却されたものだ。そして、おそらくはマサキが背負うと決めたはずのもの。なら、取り返さなくてはならない。
「戻せ」
 たった一言。拒否など許さない。なぜならそれは命令であった。
 この世で自身に命令できるのはおのれだけだと豪語した男に放てば気分を害するだけでは到底すむまい。だが、勝機は十二分にあった。目の前の男はマサキにたいそう甘かったのだ。
「マサキ……」
「おれは戻せって言ったんだ」
 悪意があっての所業ではない。ずいぶんと歪んではいるが根底にあるのは善意だ。
「もう一度言うぞ。シュウ、おれの記憶を戻せ」
 逡巡は実に数十秒に及んだ。
「……わかりました」
 瞬間、記憶の空白地帯に殴り込んできた激情。全身を打ちのめす衝撃、皮膚が裂ける音と刺し貫かれる痛み。土煙と血の臭い。赤く燃えるまぶたの裏。きしむこめかみ。引きつる声帯。眼球が破裂する錯覚。吐けるものなど何もないのに胃が迫り上がる。
「マサキっ⁉︎」
「っ触るんじゃねぇ‼」
 反射的に振り払う。だが、そこまでだった。両膝から力が抜ける。身体がかしぐ。暗転。
 
 あれからどれほど時間が流れただろうか。忘れ去っていたものの帰還は凶器のごとき鋭利さでもってマサキの心身を引き裂いた。
 身体の節々が痛む。まるで巌にでも叩きつけられたかのように背中が熱い。手がぬめる。この感触は水ではない。そもそも臭いが違うのだ。駆け戻ってきた記憶は五感をともなっていた。感情も。
「……動ける気がしねえ」
 今自分が目を開けているのかどうかもわからない。手足の感覚すら怪しい。
 記憶と感情が戻った瞬間、全身を貫いたのは怒りではなく殺意だった。それほどまでに許し難かったのだ。
 なぜ忘れていたのか。なぜ忘れられたのか。記憶に手を加えられた程度でどうして忘れてしまえたのだ。情けなさと悔しさでうめくことすらできなかった。
 はなからすべてを背負えるとは思っていない。それは思い上がりというものだ。自分は伝説の勇者でもゲームの英雄でもない。ただの人間だ。凡人にできることなど知れている。けれど背負う覚悟だけは決めていた。
 時間がたてば人はどうしても忘れていく。そうでなければ生きていけないほどに脆いから。しかし、だからこそ時に思い出し、気づいてはまた拾い上げるのだ。そうして迷い躓きながら一歩ずつ前へと進んで行く。意地でも。そう、意地でもだ。
「目が覚めましたか?」
 少し離れた場所から声がする。何度か瞬きを繰り返すうちにようやく視界がクリアになってきた。
「何でそんなとこに突っ立てんだよ、お前」
 マサキが横になっていたのはゲストルームのベッドの上だった。シュウはそこから少し離れた場所でマサキの様子を窺っていたのだ。途方に暮れたように立ち尽くすその様はまるで叱られた子どもそのものだった。
「…………はぁ」
 何だか急に馬鹿らしくなってきた。脱力感にめまいすら覚える。気力を振り絞って無理矢理身体を起こすがすぐに突っ伏してしまった。
「マサキ!」
 駆け寄ってきた腕を掴むと同時に力一杯ぶん殴る。
「人を侮るのも大概にしやがれ。だいたい他人の心配してる暇があるならてめぇこそ鏡を見ろってんだ。自分がどんな面さらしてるのか自覚もねえのか!」
 世界から独り取り残されてしまった子ども。手のひらに収まるほどに小さなよすがを大事に大事に抱え込んでそこから一歩も動けずにいる。冷たい真綿の両手が自分の首を絞めていることにも気づかないで。
「いつまで自分で自分の首絞めてんだ。いい加減自覚しろ。何もかも怖がってんのはてめぇだっ‼」
 理不尽な裏切りと喪失。その生い立ちは本人から聞いた。実母からの仕打ちも。そして、おそらくはそこに端を発するであろう欠落と歪。自覚がないのかそれとも意図的に目をそらしているだけなのか目の前の男は失うことに対してひどく臆病だった。
 マサキは言葉を操ることが得意ではない。ゆえに伝えるべきだと決めたことをただ一心に叫ぶ。全身でもって切に訴える。危うくてとても見ていられないのだ。あれだけの力と頭脳を持ちながらどうしてこんなに。
「お前のそれは生きている人間の手だろうが。てめぇの首を絞めるだけの冷たい真綿の両手なんざ捨てちまえ!」
「……マサキ?」
「もしこのまま自滅するってんならお前の全部、おれによこせ。馬鹿やらかす前におれがこの手で殺してやる!」
 もう一度身体を起こす。視線の先には床に片膝を突いて呆然とこちらを見返す男がひとり。
「そんな冷たい場所にいるから馬鹿なことばっか考えちまうんだろうが。お前、頭はいいんだからそんなとこ蹴飛ばしてこっちに飛び出してこい。掴む手がねえなら貸してやる。だからこっちにこい!」
「私は……」
「シュウっ‼」
 伸ばした手。刹那、まるで何もかもを奪い取らんばかりの勢いで強引に抱き寄せられる。本当にこの男は人のことをぬいぐるみか何かと勘違いしているのではなかろうか。ひっしとかき抱かれた身体は身動き一つできやしない。一体どこにこんなでたらめな膂力を隠していたのだ。
「お前な、もうちょっと加減しろ。今あちこち痛ぇんだよ、馬鹿野郎が……」
「……すみません」
 もう本当に馬鹿馬鹿しい。腹を立てる気力すらなくなってしまった。そういえばどうしてだか目許が熱い。腫れている。泣いた覚えなどないのに。
「気持ち悪ぃ……」
 気づけば喉が痛い。頭痛もする。たぶん、熱も出ている。そういえば記憶次第では心身に深刻な不調を来すのだったと今になって思い出す。フラッシュ何とかだと誰かが言っていた。目の前の男はそれを危惧していたのか。心配性め。
「お前、責任取ってしばらく面倒見ろよ」
 この状態では今日はもうまともに動けないだろう。口を尖らせ不満もあらわに言いつける。
「喜んで」
 即答だった。本当にどうしてくれようこの男。
「二度とすんなよ」
「ええ、もちろん」
 あなたに誓って。涼しい顔で当然のように。
 本当に、本っ当にどうしてくれようこの男。
「ところで一つお願いがあるのですが」
「何だよ」
 正直、今すぐ横になりたいのだが。
「しばらくこのままでいていいですか?」
「——もう好きにしろ」
 何でこんな面倒くさい奴に捕まったのだろう。かつてない脱力感にマサキは考えることをやめた。そのまま素直に意識を手放す。どうせ目が覚める頃には何もかもがいつも通りなのだ。まあ、力一杯ぶん殴った青あざだけはしばらく消えないだろうが。
「ざまあみろ」

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