新しい長靴に少し大きめのカッパを着て雨の中を思う存分、駆け回った。ただ、お供に連れていきたかった父親の傘は小さな子どもには危ないからといつも取り上げられてしまったので、そのたびに癇癪を起こしてよく両親を困らせたものだ。
「雨の匂いは雨の匂いだろ。間違ってねえんだからそのままでいいじゃねえか」
文字通り濡れ鼠となったマサキをシュウが見つけたのは利用頻度的にそろそろ処分を考えていたセーフハウスのリビングだった。窓際に座り込んでただじっと雨雲を見上げていたのだ。
「……風邪を引きますよ」
腕を引いて立たせれば素直に従ってきた。けれどこちらを見ようとはしない。無言のままだ。普段の様子を考えればいっそ不気味なほどだった。
「まず、身体を温めてきなさい。話はそれから聞きましょう」
着替えを持たせそのままバスルームへ。
再びリビングに戻ればそこには尻尾をぺたんと床に落としたシロとクロがいた。
「事情を聞いても?」
「雨の匂いがしたんだにゃ。でも」
「雨の匂いは雨の匂いじゃにゃかったの」
ヤンロンが、と名前が出たところでシュウは得心した。なるほど。彼は地上で教職に就いていたと聞く。ならば「雨の匂いの正体」を知っていても不思議はない。だが、それがマサキにとっては意気消沈するほどにショックだったのだろう。雨の匂いは雨の匂いのままでいい。きっとそうとうな思い入れがあったに違いない。
「少しは落ち着きましたか?」
「……おぅ」
きちんとパジャマに着替えたマサキはやはり暗い顔をしたままだった。
「ヤンロンに何を言われたのですか?」
途端に険しくなる表情。その錐のごとく鋭い視線の先はシュウの足下に隠れた二匹の使い魔たちだ。
「大したことじゃねえよ。ただ」
「ただ」
「雨の匂いに『正体』なんて、あったんだなって……」
雨の匂いを構成する要素は三つ。オゾン、ペトリコール、ゲオスミンだ。
まず生成されたオゾンが下降気流に乗って地表付近へ運ばれ、これが鼻にツンとした金属的な香りとして届く。そして雨が降ったときに地面から上がってくる匂い——ペトリコール。最後の要素が土の匂いのもととなるゲオスミンだ。
「ガキの頃、雨が降るたびに何かスゲぇなって思ってたんだよ」
空から降ってくる大量の水。まるで世界中が水の底に沈んでしまったかのようだった。きっと雲の上にはすごい魔法使いがいて雨を降らせているに違いない。そう、まだ幼かったマサキにとって雨は【魔法の国】への招待状だったのだ。
ラ・ギアスにはめずらしい長雨。だからだろう。今はもう遠い遠い彼方になってしまった思い出が息を吹き返したのは。
「なるほど。彼に他意はなかったでしょうが」
今回ばかりは間が悪過ぎた。
感情の起伏が激しく多感なマサキは時にひどく神経質になる。ヤンロンの善意は知らずマサキの不可侵——ささやかな思い出——を踏み荒らしてしまったのだ。
「悪気がないのはわかってんだよ……」
ただ、理解はしても感情がついてこなかった。だから、逃げ込むように雨の中に飛び込んだのだ。そうすれば何もかもが流れ落ちる気がしたから。
「それでこの有り様ですか」
今のところ熱は出ていないようだが安心はできない。自覚のないまま疲労をため込むのがマサキだ。幸い意気消沈している今なら素直にシュウの言うことを聞いてくれるだろう。だが、それで解決する話ではない。
「聞かせてくれませんか?」
マサキをソファーに座らせると真正面からシュウは請うた。瞬間、マサキは目を見開く。
「……つまんねえぞ」
軽くにらみつける。シュウの意図は理解できなかったが悪意が無いことだけは理解できた。目の前の男はマサキにたいそう甘かったのだ。
「けれどあなたの大切な思い出でしょう。私にとってはそれだけで十分な価値がある」
まるで幼子をあやすかのように頭をなでられる。
「お前……、馬鹿じゃねえか」
それが精一杯の意地と悪態。けれど優しい手は頬をなでるばかりで。
「あなたと同じ【世界】を見たくなっただけですよ」
だから、もう一度【魔法の国】へ行きましょう。
雲の上の魔法使いもきっとあなたを待っているから。
2025/06/08 SS-それは魔法の国への
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