「猫」がしょげいている。否、青年が一人しょげて床に座り込んでいる。正面でくたりと伸びているのはサカバンバスピス。約四億五千万年前のオルドビス紀に生息していたといわれる無顎類魚——を忠実に模した全長一メートル二〇センチを超えるグレーの抱き枕であった。
サカバンバスピスを購入しマサキに贈ったのはシュウだ。過酷な任務が続くあまり緊張を解けなくなっていたマサキを脱力させるためだけに買い求められたサカバンバスピスであったが、購入当初はそれはぞんざいな扱われ方をしたものだ。何せ目につくたびに思い切りぶん投げられていたのだから。
八つ当たりを繰り返してようやく正気に返ったのだろう。メンタルの嵐が過ぎ去ったマサキは思いのほか触り心地の良かったサカバンバスピスをそれなりに気に入ったようであった。
「何かこの顔見てたらどうでもよくなるんだよ」
不機嫌になるたびに持ち出してはヘッドロックをかけるという非道であったが、それも一種の愛情表現であったらしい。しかも、サカバンバスピスでストレスを解消していたのはマサキだけではなくその使い魔であるシロとクロもであったのだ。あっと言う間にサカバンバスピスは痛んでしまった。とうとう尾の部分が破れて綿がはみ出てしまったのである。
「新しいものがまだあるでしょう?」
「そういう問題じゃねえだろ」
「でしたらもう少し丁寧に扱えば良かったでしょうに」
「うるせえっ!」
眉を釣り上げてがなるマサキの形相はなかなかにおっかない。しかし、見慣れた人間からすれば全身の毛を逆立てて威嚇する野良猫程度の迫力だ。シュウからすれば可愛らしいものだった。何せ本気で怒らせた日には一カ月の面会拒否という冷酷無情な仕打ちが待っているのだ。
「いずれにせよずいぶんと汚れてしまいましたし、クリーニングに出したほうがいいでしょう」
「……」
「ぬいぐるみ専門のクリーニング店もありますから、必要ならそこも当たってみましょう」
抱き枕とはいえ見る人間が見れば大きなぬいぐるのようなものだ。専門店であればクリーニングだけでなく糸のほつれ、部品の交換、生地補強や中綿の入れ替えに色あせや生地の移植まで対応してくれる。一部が破れてしまっただけの尾を修繕するなど造作もないに違いない。
「……高いのか?」
「この程度の修繕であれば大した金額にはならないでしょう」
「じゃあ、頼む」
サカバンバスピスへの寵愛はそうとうなものであるらしい。マサキがサカバンバスピスをかまうたびに放置されていたシュウとしては実に腹立たしい。
「次からはもう少し丁寧に扱うのですよ」
「……わかったよ」
うなだれる姿は憐憫すら誘うが原因は抱き枕である。しかも自業自得。シュウは多少の脱力感を感じながらため息をつくしかなかった。
「よし、元に戻ったな!」
「完治にゃ」
「完全復活なんだにゃ」
クリーニングに出してしばらく。ようやく「退院」を迎えたサカバンバスピスに一人と二匹の喜びようは大仰なほどであった。
「今回ばかりは仕方がありませんね」
これほどの喜んでくれるなら大人げない嫉妬には目をつむろう。しかし、それもつかの間。
「物事には限度というものがある」
サカバンバスピス復活からすでに一〇日と半日。「退院」から今日に至るまで放置されっぱなしのシュウはたいそう機嫌が悪かった。
「あんなもので機嫌を取ろうとするからですよ」
シュウが放置されっぱなしであるならチカはここ数日呆れっぱなしであった。
「物は丁寧に扱えとおっしゃったのはご主人様でしょうに」
二度目の温情はないと言い切るシュウにチカの視線は冷ややかだ。マサキが関わるとこの主人は時にたいそう大人げない反応をする。
「まあ、破れ鍋に綴じ蓋ですからねえ」
大人げない主人には大人げない「猫」が相応であろう。
とはいえ、これ以上機嫌を損ねられてもとばっちりを食らうのはチカである。対策は講じねばなるまい。
「お前は使い魔に一体どんな躾をしてやがるっ‼」
数日後。顔どころか全身を真っ赤に染めて怒鳴り込んできたマサキにチカから渡されたという「上申書」の内容を聞かされたシュウは一瞬で表情を吹き飛ばす羽目になったのだった。
「あたくし、嘘は言ってませんよ。嘘はね?」
SS-復活、サカバンバスピス!
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