とある片田舎での邂逅。
かつて彼が彼女に捧げた約定、そして今。
不断の苦難を超えてなお届かぬものに焦がれ、手を伸ばす者よ。
ライラ・エルミラージュ・リア——約定の白百合は汝の手によってこそ捧げられるものである。
ライラ・エルミラージュ・リア。
ガラス工芸の大家エントス・アインライスが手がけたとされる幻の処女作。時価総額は十数億に上ると言われるも今現在その所在を知る者はいない。エントスの工房に押し入った窃盗団によって無慈悲にも強奪されたその傑作は、それから二十数年にわたり世の風評の波間を漂いつづけているのだった。
「あなたに差し上げます」
出会い頭に差し出されたのは一輪の白百合——と寸分違わぬガラス細工。手に取ってようやくその「正体」を理解したマサキはあまりの精巧さに声を上げることも忘れて絶句した。
工芸とはあくまでも人の手による業であって不遜にも自然そのものを切り取って磨き上げるものではないはずだ。花びらの上で陽の光に輝くこの滴がただのガラスだと鼻先をかすめるしとやかな芳香がただの錯覚などとどうして信じられようか。神の御業。否、もはや狂気すら感じさせる執念の傑作であった。
「ライラ・エルミラージュ・リアですよ。私には不要なものですからあなたに差し上げます」
「お……、おう?」
普段であれば顔を合わせた瞬間に口がへの字に曲がるものだが今回ばかりはいささか事情が違った。そう、出会い頭に差し出された一輪の白百合の存在だ。しかも、それを差し出してきたのは誰あろうシュウ・シラカワなのである。気勢を削がれるのも致し方ないというもの。
「不要でしたらどなたかに譲るなり捨てるなり好きにしてください。では」
一方的に言い捨てるとくるりと踵を返しそのまま立ち去ってしまう。半ば呆然と立ち尽くすマサキに一瞥もくれることなく。
「な……、何だったんだよ、一体」
しかし、途方に暮れるマサキに応じるものは向かいの軒先で餌をねだる野良猫の親子のみであった。
何とはなしに訪れた町だった。
「これをどうぞ。あなたには必要でしょう」
まるで当然のごとく差し出された一輪の白百合にさしものシュウも足を止めざるを得なかった。
「……ライラ・エルミラージュ・リアですか」
「おや、お若いのにご存じですか?」
「熱心なコレクターが密かに作らせていた贋作を目にする機会があったのですよ。当時の技術を考えればあれも十分傑作だったのでしょうが、こうして本物を目にするとしょせんは子どもの真似事だったと言わざるを得ませんね。エントス・アインライス、表舞台から忽然と姿を消したあなたがまさかこんなところで世捨て人のように暮らしているとは。これがこうしてあなたの手にあるということは、あの事件はあなたの狂言だったのですか?」
人好きのする笑みを浮かべた好々爺は否定も肯定もしなかった。それが、答えであった。
「この白百合は持つべき者の手で咲き誇るもの。私はそう願ってこの一輪を咲かせました。富のためでもひけらかすためでもない」
そのまなざしが見据える彼方で彼を振り返るのは誰であろうか。問いただすのは無粋であろう。それよりも問うべき言葉がシュウにはあった。
「私に必要、とはどういう意味ですか?」
「そのままの意味ですよ。あなたは私の【後輩】のようですから」
「……」
「まず、自分から伝えようとしなければ伝わりませんよ。遠回しでは決して気づいてくれませんから。ええ、特に負けん気が強い意地っ張りが相手の時はね。【先輩】からのアドバイスです」
ライラ・エルミラージュ・リア。
理不尽な不幸によって挙式直前だった婚約者を失ったエントス・アインライスが咲かせた朝露輝く奇跡の白百合。
この一輪が捧げられる人間はこの世にただ一人。彼は彼女のためだけにこの奇跡を咲かせてみせたのだ。
「手が届かないからと諦めるのもひとつの解決策でしょう。ただ、私はそれができなかった。それだけはできなかった。私は——【彼女】だからこそ諦められなかった」
この老人が指しているのは【彼女】ではなく【彼】だ。同病相哀れむとでもいうのか。【彼女】のためだけの一輪を咲かせる。その一念で神の業すら超えて見せた老人は惜しげもなくその奇跡をシュウに差し出した。そこにかつてのおのれの一片を見て。だが、並び立つことなど不可能なのだ。積み上げられた時間と事実がそれを嫌悪し躊躇させる。もとより彼は陽の光の向こう側にいるべき存在。どうして手が届くなどと思い上がれるだろう。にもかかわらず老人は当然のようにもう一度それをシュウに差し出した。
「さあ、どうぞ。あなたにはこれが必要でしょう」
うなずくことも突き返すこともできず、気づけばその一輪の白百合をシュウは受け取っていた。
ただ一人のために捧げられた奇跡。受け取ってどうなるというのだろう。だが、前に進むべき足は知らず踵を返していた。感じ慣れたプラーナに向かって。
「お、お、おおお、おま、お前、なんつーもんをよこすんだよ。うっかり落としそうになったじゃねえか。ものは大事に扱え、大事にっ!」
奇跡の一輪を半ば押しつけてしまってから数分後。どうやら勢いで受け取ってしまったものの「正しい情報」にたどり着いたようだ。おそらくウェンディかセニアあたりに尋ねたのだろう。全速力で追いかけてきたマサキの気迫に無視するつもりでいたシュウはつい立ち止まってしまう。
「てか、いきなりこんなもんよこして何がしたかったんだよ、お前」
全速力で追いついたマサキは心底呆れていた。
「いえ、何となく」
「何となくでこんな馬鹿高いもんをよこすんじゃねえよ。言いたいことがあるならはっきり言え、はっきり。いちいち面倒くさいんだよ、お前」
「それは失礼。言ったところで通じる気がしませんでしたので」
「——喧嘩売ってるなら買うぞ?」
「お断りします」
「じゃあ、おれにもわかるように言え!」
「どうしてそこで偉そうになるのですか、あなたは」
「あぁっ、もう、うるせえよ! とにかく言えって」
「そうですか。でしたら、今から食事に行きませんか?」
「は?」
自分でも唐突な提案だと思う。だが、彼の手で咲き誇る白百合を見た瞬間、言葉が口を衝いて出ていたのだ。
「嫌でしたらかまいませんよ。それでは失礼」
「勝手に自己完結してんじゃねえよ。行く。行けばいいんだろう。……腹減ってるし。でも、金あんまり持ってきてねえから奢れよな」
食欲の前ではプライドも強情も無力であったらしい。口をへの字に曲げたマサキにシュウはほんの少しだけ口許をほころばせる。
「当たり前でしょう。こちらから誘ったのですから」
出会ってしまったのはラングランの辺境にある名もない田舎町の外れ。ここには悪名高き背教者の顔を知る者もいなければラ・ギアスの空を駆る風の魔装機神操者の顔を知る者もいない。だからこそ、こんな他愛ない一幕も許されるのだ。
一輪の白百合が結んだ小さな奇跡。
それは誰も知らないささやかな邂逅。
不断の苦難を超えてなお届かぬものに焦がれ、手を伸ばす者よ。
ライラ・エルミラージュ・リア——約定の白百合は汝の手によってこそ捧げられるものである。
