それは手のひらに収まる程度の丸いデザイン缶に入ったクリームだった。蓋には蝶と戯れる三毛猫が描かれている。不思議そうに蝶を見上げるその表情は好奇心が旺盛な誰かを思わせるようでとても微笑ましい。
「何だ、お前も使うのか?」
缶の持ち主が意外そうにシュウを見上げてくる。本当にそっくりだ。
「いえ、少しめずらしいと思っただけですよ。あなたの好みではないでしょう。プレシアですか?」
「あー……。まあ、な。俺は別に気にしちゃいねえんだがスゲぇ手が荒れてるって言われてよ。少しは自分を大事にしろとか大げさなこと言われちまった」
「なるほど。これはソータスのスチームクリームですね。全身に使えますし缶のデザインも豊富で特に女性に人気なのですよ」
マサキが使う三毛猫のデザイン缶もいくつか種類があるらしくデザイン缶の中では特に人気の商品らしい。
「お前ほんと何でも知ってるな」
「モニカやサフィーネがよく買いに行っていますからね。新しいデザイン缶が出るたびにはしゃいでいますよ」
「なるほど」
容易に想像できる光景だ。
「正直、クリームなんて塗るだけ無駄だと思っちまうんだよな。どうせすぐ汚れちまうし、下手に手がベタベタしてたら魔装機の操縦にミスが出るんじゃねえかって」
どうしても危機感のほうが勝ってしまう。彼は正直だ。それでも妹からの気づかいはやはり嬉しいのだろう。知らずほころぶ口許には愛しさが溢れている。
「適量を使えば手がべたつくことはありませんよ」
マサキの性格上、どうせ適当に取って塗っているのだろう。それでは手がべたつくのも当然だ。
「そうなのか?」
きょとんとした顔でこちらを見返してくる。やや釣り気味の大きな目。その様は初めてのものに興味深く鼻を近づける子猫そのものだ。
「スチームクリームは少量でもよく伸びますからね。少し貸してください。この程度で十分なのですよ」
「本当にちょっとじゃねえか!」
「ええ。さあ、手を貸してください」
手の甲につけて軽く揉む。まるで皮膚の上をすべるようクリームはよく伸びた。
「……ほんとに伸びたな。ベタベタしねえ」
「だから言ったでしょう。こういうものは少量でいいのですよ」
「そっか。ありがとよ」
当たり前のように向けられる笑顔。立場的に普段は皮肉や憎まれ口の応酬ばかりだがその枠からはずれてしまえばマサキはとても素直で無邪気だった。見ていていっそ心配になるほどに。
「あなたの周りの人間の多くが善良であることに感謝しなければいけませんね」
自身の悪性に自覚があるシュウとしてはマサキの話を聞くたびに気が気でないことが何度もあったのだ。頼むからもう少し人を疑うことを心がけて欲しい。日常的な悪意が戦場のそれよりも悪辣であることは多々あるのだ。
「以前にも言いましたけど、ご主人様、それ無理ゲーってやつですよ」
すでに何かを悟ってしまったらしいチカは容赦なく主人の願望を切り捨てる。
「だいたい変に疑う癖がついたマサキさんなんてもうマサキさんじゃありませんよ。解釈違いです。解釈違い! 想像してみてくださいよ、ご主人様みたくなったマサキさんを!」
「——私には何も見えませんでしたよ」
シュウはその場で記憶を永遠に削除した。悪夢にもほどがある。木っ端微塵にできる分、邪神の呼び声のほうがよほど良心的ではないか。
「ほら、ごらんなさい」
チカの視線は冷ややかだ。
「世の中にはどうしようもないことがあるのですね」
これはもう悟りを開くしかない。
「そーですよ。この世には不可能なことがあるんです。現実は素直に受け入れましょう」
うなずき合うひとりと一羽。そして、彼らの視線の先では真面目に保湿クリームと格闘する青年が一人。こちらの深刻な空気に気づく素振りはない。なんとまあのんきなことだろう。あれで一度でも戦場に立てば一騎当千の魔装機神操者として天地に君臨するのだから世の中とは実に不思議なものである。
「なあ、これって顔にも塗ったほうがいいのか?」
「顔ですか?」
「日焼けとかオイルとか土埃とかでだいたいいつも汚れてるからよ。よくわかんねえけどひどい有り様なんだと」
美容に敏感な女性陣はともかくがさつなマサキにスキンケアという概念はない。ましてや常日頃から戦場を飛び回っている身だ。肌荒れごときに気を配る余裕などあろうはずもない。優先すべきは良質な睡眠と健康的な食生活である。
「そうですね。できれば手入れはしておいたほうがいいでしょう。あなたは魔装機神隊の実質的なリーダーです。加えてラングランにおいてはランドール・ザン・ゼノサキスの聖号を賜与されている。公の場に出ることも少なくはないでしょう。いつもはどうしているのですか?」
まさか普段着のままで出席しているわけではないだろう。最低限の礼儀というものがある。
「一応、服は前に何着か作ったやつを着てる。あとあんまりひどかったら……、セニアが用意したとこにぶち込まれる」
数分前とは打って変わってその表情は暗い。
「ああ、メンズエステですか」
さすがセニア、容赦がない。ドナドナよろしく連行されていく様が目に浮かぶようだ。
「あなたにとっては相当な苦行でしょうね」
セニアが手配している以上、そこは王侯貴族御用達の由緒あるサロンに違いない。しかも相手が救国の英雄ともなればそれはもう徹底的に磨かれるだろう。がさつで無頓着なマサキにとってはまさに生き地獄。
「そうですね。同じ目に遭いたくないのであれば日頃からもう少し真面目にスキンケアをするべきでしょう。そのクリームであれば全身に使えますからしばらく試してみなさい。追加が必要ならこちらで手配しますから」
「……毎日しなきゃだめなのかよ」
「ええ、日頃の手入れが大事ですからね」
「面倒くせぇ……」
「努力は一日で実るものではありませんよ。まずは一カ月頑張りなさい」
ふてくされるマサキの手からデザイン缶を取り上げて指に取る。日に焼けたマサキの肌にはぱっと見ではわからない小さな傷が目立つ。もったいない。素直にそう思う。
「少しじっとしていなさい」
すっと人差し指を頬に滑らせる。確かに表面上は荒れているものの触れる肌そのものは柔らかい。ふと気づく。公の場に立つために必要なこととはいえこの肌に自分以外の誰かが当然のように触れているのか。
「面白くありませんね」
「どうかしたのか?」
「いいえ、こちらの話ですよ」
数週間後、何とはなしに訪れたセーフハウスで山と積まれたメンズ化粧品にマサキが目を剥いたのはここだけの話である。
お手入れしましょう!
短編 List-1