逢魔時

短編 List-1
短編 List-1

 鏡の向こう側は『向こう側』へと続いている。『向こう側』からの来訪者はそう言って笑った。
「黄昏時に『鏡』をのぞくのはやめておくがいい。あれはともかくお前はいい匂いがする。すぐに見つかるぞ」
 どうせ連れて行くなら賢しいばかりの小僧より可愛げのある子どものほうがずっといいからな。大変失礼な話であったが現実はそんなレベルの話ではない。『鏡』の向こう側は確かに『向こう側』へと続いていたのだ。
 あれは人の手に負える代物ではない。禁忌タブー。人の認識の埒外にあるべきもの。
「何を喚んだんだよ、あの馬鹿野郎っ⁉︎」
 悪態を吐こうにも喉からはひゅーひゅーと音が出るばかりで声にならない。
「マサキ」
 影が差す。恐る恐る振り仰げばそこには見慣れたけれどまったく見慣れない笑顔が。気持ちが悪い。同じ顔をしているはずなのに何もかもが歪んで見える。息が詰まる。後ずさろうにも腰が抜けたままではどうしようもない。
 
 いつものようにリビングで昼寝をしていた。上掛けはいけ好かない男の白い外套。毛布がないのでと毎回渡されていたら習慣になってしまったのだ。
 目が覚めると日はすでに傾いてた。
「マサキ」
 名を呼ばれた瞬間、全身が総毛立った。
 【逢魔が時】あるいは【逢う魔が時】と書き、時に「大禍時」とも。夕暮れ時は気をつけなさい。いつだったかあのいけ好かない男はそう言って笑った。
「今」がそれだ。
 伸ばされた手を振り払い、ソファから起き上がると同時に飛びすさる。だが、着地と同時に腰が抜けた。
「え?」
 そのまま床に転がる。現実に理解が追いつかない。
「賢しい小僧の執心がどんなものか、少し興味が湧いた」
「お……、お前、何なんだよ⁉︎」
「誰、とは言わないのか?」
 むかつく。同じ顔なのに何もかもが違うとわかってしまうから余計に腹立たしい。
「てめぇは『誰』でもねえだろうが。馬鹿にするんじゃねえっ!」
 これは『何か』だ。人でもものでもない。人の認識の埒外にある『何か』。
 途端、気配が反転する。人からそれ以外のものへ。姿ばかりがあの男と同じ『何か』が笑う。
「人にしては知恵が回る。ゆえに好きにさせていたが少々好奇心が過ぎた。軽い仕置きだ。しばらく『向こう側』に放り込んだ」
「え」
 目の前のこれは今何と言った。誰を『向こう側』へ——人の理解の埒外へ放り込んだと?
「……っ!」
 怒りあまりにらみつければ顎を掴まれる。
「ずいぶんと血にまみれているがその善性にいまだ穢れなき、か。精霊の好む色をしている。結んだ縁も多く深い。得心した」
 賢しいばかりの小僧にはさぞまぶしかろう、妬ましかろう。くっくと喉を鳴らして笑う。何がそんなにおかしい。かっとなってその胸を突き飛ばす。肩越しに見えたのは壁にかけられた鏡。
「黄昏時に『鏡』をのぞくのはやめておくがいい。あれはともかく、お前はいい匂いがする。すぐに見つかるぞ」
「一体何を喚んだんだよ、あの馬鹿野郎っ⁉︎」
 悪態を吐こうにも喉からはひゅーひゅーと音が出るばかりで声にならない。それでも、叫んだ。叫ばずにはいられなかった。
「マサキ」
 影が差す。恐る恐る振り仰げばそこには見慣れたけれどまったく見慣れない笑顔が。気持ちが悪い。同じ顔をしているはずなのに何もかもが歪んで見える。息が詰まる。後ずさろうにも腰が抜けたままではどうしようもない。
 手首をつかまれる。
「さて、賢しい小僧は『向こう側』へ放り込んだが、お前はどうしてくれよう?」
 怒鳴りつけようにも声は出ず、逃げだそうにも腰が立たない。殴り返そうとしたが手首をつかまれて振りほどけない。八方ふさがりだ。
「そうだな。お前は『こちら側』に来るといい。ここでも『向こう側』でもない『こちら側に』へ。さあ、おいで」
 ずいと寄せられた顔に血の気が引く。違う。これは違う。同じ顔をした何もかもが違う『何か』だ。
「い……、いや、だ」
 いやだ。いやだいやだいやだ。寄るな、触るな。あいつじゃない『何か』がおれに触るな。
「——シュウっ‼」
 刹那、声が出た。
「はい。すみません、遅くなりました」
「へ?」
 ほぼ同時に左肩から袈裟懸けに『何か』の上半身が飛ぶ。残る下半身はゆらゆらと揺れる黒い根の塊へと変わり果てていた。
「あまり脅かさないでくさい。彼は私と違ってとても素直な性根をしているのですよ」
 一歩前に出てマサキを背にかばう。
「……え、へ、えぇ?」
「あれだけ自慢げにそれも一方的に聞かされては興味も湧く。それで、気はすんだか。賢しい人の子よ」
 壁にかけられた鏡の向こう側で『何か』が笑う。
「人智の及ぶ範囲にかぎれば十分に」
 それより先は人の手に余る。否、あれは人間ごときが触れていい領域ではない。
「では、疾く『道』を閉じよ。愚かな人の子、勇なき者よ」
「ただ人風情が『そちら側』へ渡ることを勇気とは言いませんよ。人はそれを愚行と言うのです。ええ、すぐに閉じますとも。マサキを連れて行かれてはたまりませんからね」
「賢しいばかりでなく業も深ければ欲も深いか。救い難い!」
 呵呵大笑。一体何がそれほど愉快であったのか。得体の知れぬ『何か』は場にわだかまる影の根を引きずりながら今度こそ鏡の『向こう側』へと去って行った。
 
「お……、おま、お前。今までどこ、に!」
「少し『向こう側』へ。思ったよりも遅くなりました」
 何でもなじみの古書店で召喚術に関する写本を見つけたらしい。ラングラン以前、五五〇〇〇年前のトロイア文明よりもさらに古い時代の文字で記されたそれに興味が湧いたのだとか。
「まさか序文を解読するだけで一カ月以上かかるとは思いませんでした」
 その後、目次から本文へと解読が進むにつれ、シュウはこの稀覯本きこうぼんが意図的に破棄されたものだと理解する。
「何せ中身が中身でしたからね。まさか『向こう側』へ通じる『道』を一定確率で発生させるものだとは」
 聞けば別の写本を購入した好事家は購入から半年後に崖から身を投げて命を絶ったらしい。写本はナイフで切り刻まれた末に焼き払われたそうだ。
「正しく怖れることを知っていればある程度の自衛はできます」
 人が正しく認識できるのはあくまでも人の領域までだ。
「え……、と、それでさっきのやつは?」
「さあ。人間ではない『何か』としか」
「でも、お前さっきあいつと話してただろ?」
「あれは『向こう側』の気まぐれですよ」
 とはいえ十分用心はしていた。解読の過程で発見した護符も常に身につけて片時も離さなかった。正直、写本の内容が事実であるならシュウはこのラ・ギアスの『破壊神』がヴォルクルスであることに心の底から感謝したいくらいだった。『向こう側』と『こちら側』では存在の「スケール」に差があり過ぎるのだ。もはや絶望する気も失せるほどに。
「しかし、まさかあなたにまで興味を持たれるとは思いませんでしたよ」
 これで懲りました。
「じゃあ、さっさと捨てろ、そんな物騒なもん!」
「ええ、明日掃除のついでに処分しましょう。今日の夕食は私が作りますから、あなたは部屋で待っていてください。疲れたでしょう?」
「お前のせいでなっ‼」
「埋め合わせにあなたの好きなコブガチョウの包み焼きとほうれん草のソテーを作りますよ。他にリクエストはありますか?」
「ダージリン。お前、ちょっと前に地上に出てただろ。そのときに買ってたの知ってるんだからな。あれ出せ、飲む!」
「いいでしょう。もともとあなたと飲むつもりでしたからね。さあ、しばらく部屋で休んでいてください」
 そうしておとなしくマサキがゲストルームに戻るのを見届けるとシュウは左手の人差し指に絡むそれに向かって微笑む。
「可愛い人でしょう?」
 まるで脈打つ根のような黒い影。その表面で赤く発光するのは人間には発音不可能な象形文字だ。
 くっくと喉を鳴らせればそれは相づちを打つかのように身をくねらせ、そのまま爪と皮膚の隙間へと消えて行った。
「本当に話の通じる相手で助かりました」
 『契約』は正しく結ばれた。もう、あの写本に用はない。
 鏡の向こう側で『何か』が笑った。

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