胃がありません、カモノハシさん!

短編 List-2
短編 List-2

 カモノハシ – 鴨嘴
 英名 platypusプラプタス
 Ornithorhynchus anatinus
 爬虫類の特徴をとどめる単孔目カモノハシ科の水生哺乳類。
 オーストラリア東部とタスマニア島に分布し鳥や爬虫類のように総排出孔を備えるも、卵生ながら体毛があり哺乳するという点では哺乳類の特徴を持つ実に奇妙な存在である。

 家で一人読書にふけることが多いシュウとは対照的にマサキは家の中であってもじっとしていることが苦手だった。何かしら動いていないと落ち着かないらしい。単純に退屈で仕方がないのだろう。シュウはその退屈を紛らわせるためにマサキが興味を持ちそうなデータを詰め込んだ専用のタブレットを用意することにした。
 シュウの目論見通りマサキはタブレットに興味を持ち、以降、自身にとっての「未知」を発見するたびにシュウを捕まえて尋ねてくるようになった。
「無いっ⁉︎」
 今回はよほど衝撃的な「発見」だったらしい。半ばひっくり返った悲鳴が天井に反射してシュウの鼓膜に降ってくる。
「どうかしましたか?」
「い」
「い?」
「い……、が、無い。しかもオーストラリアだった!」
 どうやら「胃」が無いと言いたかったらしい。
 カモノハシ。オーストラリア東部とタスマニア島に分布し、爬虫類の特徴をとどめる単孔目カモノハシ科の水生哺乳類。脊髄動物の多くは通常、胃を備えているがカモノハシは胃を持たず食道が腸に直結していたのである。
「カモって名前だしアヒルみたいなくちばししてるからてっきり日本のかと思ってた」
「なるほど。ですが、ハリモグラや多くの魚類も胃を持っていませんよ。進化の過程で胃の働きに関係する遺伝子の多くを失ったからだと」
「マジか?」
「ええ。カモノハシに関して言えばきちんとDNA解析も行われていますからね」
「進化の過程で胃が無くなるとか……。何があったんだよ、カモノハシ」
 腕を組み首を傾げながらうんうんとうなる。「胃のない生物」が実在するという事実がよほど衝撃的だったらしい。
「なあ。長い時間をかけて胃が無くなったっていうならよ、また進化していけば胃が戻ったりするのか?」
「どうでしょうね。古生物学者のルイ・ドロが提唱した『生物の進化は不可逆的である』とする『ドロの法則』は今も広く受け入れられていますし、胃のような複雑な器官——その遺伝子まで失われているとなるとまず復活は不可能でしょう」
 そもそもカモノハシは国際自然保護連合IUCNの絶滅危惧種レッドリストで準絶滅危惧種に指定されているのだ。進化以前に種の存続がすでに危ういのである。
「なあ、それって」
「主な原因は気候変動、山火事、人間の開発による生息域の減少ですね」
「……」
「地上の問題は地上の人間が解決することです。あなたはすでにラ・ギアスの人間。あなたが心を痛めることではありませんよ」
「それは……、そう、なんだけどよ」
 知ってしまった以上、見過ごすことにどうしても罪悪感を感じてしまうのだろう。
 開発による生息域の減少。それも見方によっては一つの「世界」に対する「脅威」だ。魔装機神操者がその責務として負う「世界」とは比較にすらならない規模スケールではあるが、いくら小さくともそれが一つの「世界」であることには違いない。
「善良であることは素晴らしいことですが、あなたの場合は少し考え物ですね」
「何だよ、それ」
「言葉通りの意味ですよ。せめてここにいるときくらいはその肩の荷を下ろしなさい」
 マサキの性格を考えれば到底、無理な話だろうが。
「そうですね。今度、動物園に行きましょうか」
「は?」
「あなたはすでにラ・ギアスの人間です。地上への過度な干渉は許されない。けれどあなたの性格上、何もかも見過ごすことはできないでしょう?」
「……」
 そうだ。何もかも見過ごすことはできない。見過ごしたくない。青臭い理想。理想だけでは救えない。けれどそれを捨てたとしてもきっと救えはしない。
 ならば、と足下の「影」がマサキに問う。
 矮小の身で高き理想を掲げるならば目の前の事実に対しておのれは何ができる。地上と地底、二つの「世界」を生きる人間として今生きるこの「世界」で何をなす。
 思いつくことなど数えるほどもない。
 息を吸う。
 ならば、返そう——「世界」へ。
 過去・現在・未来。手の届かぬ向こう側の「世界」に対して今自分が存在するこの「世界」に対して、この手がなせるすべてをもって「世界」が「世界」であるための一切を——生きてこの身に叶うかぎり。
 それは絵空事でありとても困難な道だ。なぜならマサキはおのれが徒人であることを知っていた。そして、この世で徒人にできることなど知れている。
「けれど、あなたはそうあることを選ぶのでしょう」
 「世界」を自ら背負った人間はまるで苦難こそが舗装された道だと思っているふしがある。本当にどうしようもない。
「その大小にかかわらず、何かをなそうとするのであれば最低限の休息は取っておくべきですよ」
「それは……、そうだけどよ。だからって、何で今さら動物園……」
 正直、この年齢になって動物園というのは少々恥ずかしいものがある。 
「ちょうどいい機会ですから、オーストラリアに行きましょう。シドニーのタロンガ動物園かメルボルン動物園であれば本物のカモノハシに会えますよ」
「え、あいつら動物園にいるのか!」
 思わず食いついてしまった。年相応の羞恥も好奇心には勝てなかったらしい。
「手配はこちらでしておきますよ。とはいえ、あなたには任務もありますから余裕ができたときにこちらから連絡しましょう。もちろん、きちんと話を通しておくので安心なさい」
「いや、それ別の意味で安心できねえ……」
 一体「誰に」話を通すのか。そして、それは一人ですむ話なのか。聞きたいことは山とあったがマサキはぐっとこらえた。聞いたが最後、どこでもいいから籠城したくなる「未来」しか見えなかったからだ。人生、悪い予感ほどよく当たるのである。
「心配せずとも悪いようにはしませんよ。そろそろいい時間ですし、ティータイムにしましょうか」
 手にしていた学術書を閉じ、立ち上がる。マサキの視線は再びタブレットに戻っていた。
 カモノハシ。英名プラタプス。
 カモのようなくちばし、分厚い茶褐色の毛皮、ビーバーのような平たい尻尾に水かきのある四本の足。その見た目はまるでモグラとアヒルの合の子だ。実際、カモノハシは鳥類、哺乳類、そして爬虫類の特徴を合わせ持っている。恐竜がいた時代にすでに地球上に生息していたという説もあり現に化石が見つかっている。
 このユーモラスな生き物が『地底世界ラ・ギアス』における『世界の守護者』に、あらためて一つの決意を抱かせるに至ったなどと誰が知ろう。
「あなたが相手だと本当に退屈しませんよ」
 広く知られたただの事実にいまさら何の感慨もない。けれど彼の目を通して見る「世界」——そう既知であるはずの「世界」は良くも悪くもいまだ驚きに満ちている。
 それはとても素晴らしいことだった。

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