彼方の古城

短編 List-2
短編 List-2

 いつからここにいるのだろう。
 その古城は瑠璃色の湖の中央にあった。だが、城にかかる橋はなく船を付けるための桟橋もない。城は湖に建つ「檻」であった。
 城の城主は少年期をようやく終えたばかりの青年であった。城には青年以外誰もおらず、日がな一日、青年は瑠璃色の湖を眺めていた。
「変わらねえなあ」
 いつ見ても何度見ても。
 いつから自分はここにいて、誰が自分を連れてきたのか。何もわからない。思い出せない。思い出す術がない。けれど思い出さなくてはならない。青年にあったのは出所不明の義務感だけだった。
 ここではないどこかの彼方。それが自分が帰らなくてはならない場所だ。
 決して日が暮れることのない世界であった。だが、不思議と違和感は感じなかった。蒼天の中央に座す太陽。なぜならそれは不動であるべきだったからだ。
 何かをすることもなくただ湖を眺め、疲れれば城の中の適当な部屋で気がすむまで眠る。食事は必要なかった。排泄も。
 城という「檻」は広く、湖を眺めることに飽きれば何とはなしに城内を散策することもままあった。
 部屋数は優に一〇〇を超えどの部屋も塵一つなく整頓されていた。庭はよく手入れされていて花々は常に瑞々しく朝露が輝き、厨房などはついさっきまで使用人たちが忙しなく駆け回っていたとしか思えぬほど人の気配と熱気に満ちていたほどだ。だというのに現実は青年以外誰もいない。
 気配はあれど無人。世界は閉じられ脱出する術もない。いつ終わるとも知れぬ孤独。心弱い者であればたやすく発狂したのではなかろうか。だが、青年はおのれが置かれた境遇をさほど悲嘆してはいなかった。
 それはある種の諦観。孤独とはその末端の一つに過ぎない。青年が見る世界は常に鮮やかな七色であったが時にそれはモノクロに取って代わられた。今のように。
 ここは七色ではなくモノクロの世界だ。ならばその世界に見合う人であろう。それだけの話だった。ゆえに退屈ではあれど気が触れるほど心病むことはなかったのだ。
 時折、青年を呼ぶ「声」があった。城の最上部からだ。空にもっとも近い場所。だが、足は動かなかった。むしろ嫌悪感さえ湧いたほどだ。何かを真似ているつもりなのだろう。いやらしく穢らわしい。とても卑しい「声」だった。
 手足に這い寄るそれを青年は容赦なく叩き落としそのたびに湖が見えるバルコニーへ駆け込んだ。湖から吹き上がる風を浴びたかったのだ。風は青年にまとわりつく何もかもを吹き飛ばした。爽快だった。だからこそ、日がな一日、青年は飽きることなくただ湖を眺めつづけた。
 青年が古城で目を覚ましてからどれほどの時が流れただろう。数日、十数日、あるいは数カ月。もしかしたら数年が経過していたかもしれない。時間の感覚があやふやな「檻」の中でそれは初めての変化だった。
 姿形はカワセミによく似ていた。真っ白い羽。それはカワセミより一回り小さな一羽の鳥であった。
「お前、警戒心ないよなあ。それで大丈夫か? おれじゃなかったら、お前、捕まって最悪焼き鳥だぞ?」
 鳥に人語が解せるはずもないというのに青年は鳥に何度も言って聞かせた。本当に警戒心がなかったのだ。
 モノクロの世界に一つ、興味という色が湧いた。
 そして、その日以来、鳥は頻繁に青年のもとを訪れるようになった。
「お前、よくこっちに来るけど仲間はいないのか。もしかしてはぐれたのか?」
 本当にはぐれたのであればこんなところで寄り道をしている場合ではない。
「本当にはぐれたんなら、早く仲間を探して帰れよ。お前人なつっこいし警戒心ないし、心配かけてるんじゃねえのか?」
 だから、早く帰れ。「迷子」も過ぎれば大惨事に繋がるのだ。それこそ外交問題に発展するくらいには。だが、鳥は青年の小言など聞く気はないとばかりに頭へ飛び乗るとそのまま居座ってしまった。
「お前なあ、どこのローシェンだよ。ほんと図太い神経してるぜ」
 ローシェンとは何のことだろうか。青年がおのれの口を衝いて出た言葉の意味を探るうちに鳥はどこかへ飛び去ってしまった。
 さて、ローシェンとは本当に何の言葉だろうか。
 疑問という色が一つ、世界に波紋を広げた。 
 翌日、再び鳥は青年のもとを訪れた。くちばしに可憐な野の花をくわえて。
「この花……、湖の向こうには野原があるのか?」
 見覚えのある花だった。いつかの春先、小さな野原で春風に揺れていた名もなき野の花。
「あのおっさん、好き嫌いが激し過ぎるんだよ」
 息抜きを理由に偏食のひどい中年男を引っ張ってやってきたピクニック。視界一杯に広がるのは春風に揺れる名もなき小さな花々だった。はしゃいでいた世話焼きの少女は何という名前だっただろう。あまり怒らせるとおたまが飛んでくるので偏食中年児を早く何とかしなくては。
 そう、うらやましいほどに仲の良い父と娘だった。
 そういえば、あの偏食中年児は自分に向かって何と言っていただろう。春風が似合う世話焼きの少女も。
 家族という言葉が二つ、世界に色を点した。
 次の日、鳥は青年の目の前で何度も湖に潜り、羽を広げて空へ飛び出した。
 何か伝えたいことがあるのだろう。だが、正直、青年にはわからなかった。それよりも何度も湖に潜る鳥がいつか力尽きて溺れてしまうのではないかと心配のほうが勝っていた。
「なあ、もういいよ。やめろよ。お前、溺れちまうぞ!」
 このままではきっと羽が折れてしまう。そうなったらもう二度と飛べなくなる。とても綺麗な純白の羽。日の光を浴びてまるで白銀のように輝くそれが、それは——。
 違う。それがいかな逆風であれ空の彼方の深淵であれ、あれは決して折れない。否、折らせはしない。天翔る白銀の翼。それはこの背が負うものだ。決して譲れぬ誇りとともに。
 蒼天を翔る色が一つ、世界に舞い降りる。
 気づけば鳥は目の前にいた。今まで気づかなかったが鳥はめずらしい瞳の色をしていた。
「何だお前、めずらしい色してるな。紫、紫水晶アメジストみ……、た、い?」
 ああ、そういえばあのいけすかない男は綺麗な紫水晶だった。腹立たしい。男は顔も良ければ頭も良かった。その上、腐るほど金もあった。その気になればおよそだいたいの人間が望むであろうすべてを手に入れられる男は、どうしてだか好きこのんで自分を構うのだ。物好きめ。
「ここまで呪縛が緩めば十分でしょう」
 突如、砂塵のように崩れ去った鳥の向こう側にはいけすかない男が立っていた。相も変わらずニヒルな笑みを浮かべて。
「あなたは『誰』ですか?」
 いけすかない男が問う。
「は? お前、喧嘩売ってんのか。自分の名前を忘れるわけがねえだろうが!」
 風の魔装機神サイバスター操者マサキ・アンドー。
 そうだ、それ以外の『誰』でもない。刹那、手足にまとわりついていた何か・・がはじけ飛ぶ。視界を舞う翡翠の羽。手を伸ばす。
 帰るのだ、ここではない『いま』へ!
 そうして、ついに世界を彩る七色は息を吹き返した。
「それは重畳」
 マサキの反応にシュウは満足げにうなずく。
「では、帰りましょう。これ以上、長居は無用です」
「ちょ……、ば、かっ⁉︎」
 腰を抱かれたと思えばそのまま湖へと飛び込む。溺れる。思わず目をつむる。だが、息苦しさはない。不思議と目を開ければそこにあったのは真っ白い天井であった。
「へ?」
「ようやくお目覚めですね。報せを受けたときはどうなることかと思いましたが。ああ、急に動くのはやめなさい。覚えていないでしょうが、あなたは二週間も意識不明だったのですよ?」
 要人警護の任務を受けた先でヴォルクルス教団の襲撃を受けたのだ。当初は警護対象であった要人を狙ってのことだと思われたがそれはフェイクだった。教団の狙いは要人警護の任務に就いていたマサキたち魔装機神操者であったのだ。教団側も馬鹿ではない。魔装機神に搭乗した状態では任務遂行が危ういと判断し、マサキたちが魔装機神を降りたときを狙ったのだ。
 結果、教団側の目論見通り多数の死傷者とともにマサキたちもまた大きな傷を負った。
 当時、任務に就いていたのはマサキとテュッティであったが衰弱の早かったテュッティは集中治療の末、マサキより数日早く意識を取り戻していたのだった。
「あなた方にかけられた呪いは精神を強制的に孤独へ追いやって崩壊させるものだったのですが、どういうわけかあなたは呪いの進行が遅く治療が後回しになっていたのですよ」
「……お前、何か怒ってねえか」
 常日頃の泰然自若はどこへいった。男はあからさまに不機嫌だった。
「逆にどうして平静でいられると?」
「いや、だって、任務で怪我するとか寝込むとか別に今に始まった話じゃねえしよ……」
 それは素朴な疑問だった。そう、本当にいまさらなのだ。
「『檻』に繋がれ記憶すら失い、逃げ出す術もなくしたあなたを見て」
「あ」
「私に平静でいろと?」
 失言どころか大事故である。マサキは頭を抱えた。
 『自由』を愛する男にとって『束縛』は大敵であり禁句であった。そして、それは何も自身対してのことだけではなく。
「……悪かった」
 これはもう謝るしかない。たとえ自分が被害者であったとしても。
「被害者であるあなたが謝ることではないでしょう。心配せずとも下手人はきちんと法の裁きを受ける予定ですから安心なさい」
「いや、待て。予定って何だ予定って」
「向こうがどういう手順を踏んだかは知りませんが、呪詛返しをしましたからね。最低でも術者本人は今頃自身の術で悶え苦しんでいるでしょう」
「……むごい」
「あなたを『檻』に繋いだのですから妥当な処罰ですよ」
「お前その過保護どうにかしろよ……、ガキじゃねえんだぞ」
「なら、せめて自分の身くらい自分で守ってみせなさい。相変わらず魔術の練習はしていないのでしょう。できないというのなら、使えるものを使うことを覚えなさい」
 もっともである。言い返す言葉を見いだせなかったマサキは口をへの字に曲げた。実に大人げない。
「目が覚めたとはいえ今の今まで眠っていたのです。もう少し休んでいなさい。看護師の巡回時間までまだ時間があります」
 そうしてそっと掌をまぶたの上に乗せる。
「……なあ」
「何ですか」
「あの城、嫌な声がする場所があったんだよ」
 空にもっとも近い場所から聞こえてきたそれはひどくいやらしくて穢らわしい、とても卑しい「声」だった。あの場所には一体何があったのだろう。
「思い出したいのですか?」
「わからねえ……」
 脳裏をよぎるのは自分の足下に張られた諦観の薄氷。あれはきっと向こう側に沈めてしまった何かだ。七色の『世界』から抜け落ちてしまったモノクロ。
 彼方の古城。諦観の薄氷——その向こう側に置き去りにした、置き去りにされてしまった何か。遠い遠い過去の一片。
「あなたが今生きているのは現在いまであって過去ではありませんよ」
「過去がなけりゃあ現在もねえだろうがよ」
「過去に引きずられるために現在があるわけではないでしょう」
「ああいえばこういう……」
「いいから、もう休みなさい。しばらくすればあなたの仲間たちが駆けつけますよ」
 ああ、そういえばプレシアはかんかんに怒っていましたね。しれっとのたまうシュウにマサキの顔からさっと血の気が引く。そうだ、自分は二週間も意識不明だったのだ。経緯はどうあれこれは絶対に叱られる。マサキは天を仰いだ。マサキの妹様はたいそうおっかないのである。
「勘弁してくれ……」
 寝よう。シュウの言葉に応じるわけではないが今後のことを考えると少しでも眠って体力を回復させなければ。
「なあ」
「何ですか?」
「……ありがとよ」
「どういたしまして」
 思い出したように告げればまるで幼子にするかのようにゆっくりと頭をなでられた。回復したら脳天を引っ叩こう。マサキは即座に決意した。
 『声』はもう聞こえない。彼方の古城はまた薄氷の向こう側へ。

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