あれから何十年たっただろうか。
目の前には在りし日の年若かった自分が立っている。
古びた教会、その最奥を飾るステンドグラス。
青く紺く碧く燃え盛るステンドグラスの向こう側に隠されたもの、閉じ込められたものは何であろうか。
「それを越えて行くのなら、あなたは最後の唯一を失いますよ」
過去の自分が現在の自分を嘲笑う。どこか勝ち誇ったように。嫌味な顔だと彼にはよく叱られたものだ。ああ、あれから一体何十年たっただろう。
ラ・ギアスのため魔装機神操者としての誇りのため、マサキ・アンドーは逝った。文字通り怒濤の時代を駆け抜け一切合切を巻き込み未来に引きずって。
死後、その遺品のほとんどは彼の妹が引き取り、残るいくつかを形見分けとして彼と特に近しかった仲間たちが引き取った。
「これ、返すわ。あんたでしょう?」
従姉妹はそれが何であるかをよく知っていた。だからこそ、返すと言ったのだ。
緑と翠の貴石を連ねた腕輪。七色にまたたく希少石が飾るペンダント。魔術に疎い彼の身を守る一助になればと贈った加護の象徴。
ラ・ギアスにおけるマサキの政治的立場の都合上、葬儀は大々的に行われたが墓碑の下に収められたのは空の棺であった。マサキの亡骸は後日、近親者のみで改めて行われた葬儀のあと風の精霊王を祀る神殿のかたわらに埋葬された。これは葬儀に参列した近親者とごく一部の王家・政府関係者のみに共有された事実であったがそれが破られたのは何年後のことであったか。
暴かれた棺の中にマサキの亡骸はほとんど残ってはいなかった。
魔術に心得のある者であれば墓荒らしの目的などすぐに知れた。精霊を喚ぶための触媒あるいは術具にするためだ。すぐさま捜索が行われたが結果は芳しくなかった。マサキは誰しもが認めるほど精霊——それも風の精霊王との縁が深かった。精霊憑依すら成し遂げたのだ。触媒とするのであればその亡骸に勝るものはなかった。
一歩一歩迷うことなく進む。
あれからもう何十年とたったというのに無惨に暴かれた棺の前で立ち尽くしていたことがまるで昨日のことのように思い出せる。
「失いますよ?」
在りし日の自分が笑う。
嘲るように厭うように憎悪すらのぞかせて。
「その覚悟はありますか?」
立ちはだかる幻の根源はどこにある。
「あなたには関係ありません」
果たさねばならぬのだ。いつかその日が訪れたなら、必ず、この手で。
あの日から世界中を皆が探した。彼の仲間、かつて彼を助けまた彼が助けた者。一時は彼と敵対した者たち。それでも容易には見つからなかった。何年もかけてようやく一部は取り戻せたものの残る多くは形を変え名を変えて人の手を渡り歩き、いくつかは秘蔵されそのまま死蔵された。何十年という時間の経過はやがてそれらを【聖遺物】というカテゴリに振り分けた。
風の魔装機神初代操者の亡骸を土台に作られた触媒。術具。世に二つとない聖遺物。正道邪道を問わず多くの人間がそれを求めて躍起になった。魔道への探究心と研鑽はたやすく倫理の轍を踏み外させたのである。
ゆえにそのことごとくを破壊した。
死してなお執着の対象となることを彼は嫌悪していた。
「私が壊して差し上げますよ」
「世界」が築く【聖遺物】と言う檻、信仰という軛を。そして、あなたに再び「自由」を捧げよう。
「素粒子一つ、残しはしません」
約束したのだ、彼と。
ああ、あれから何十年たっただろうか。
「愚かであったのはどちらでしょうね」
過去の私か未来の私か。
在りし日の自分が一笑し、そうして大気に溶けた。まるで砂の城が崩れ落ちるように。
そこにステンドグラスの窓はなかった。あったのはあちらこちらが痛み蜘蛛の巣が張った扉だった。指先が触れる前に扉が開く。天地も知れぬ暗闇の中をいつの間にか手にしていた燭台の灯りを頼りに進む。背後にあったはずの扉はすでにない。もう後戻りはできない。
天地も不確かな世界を黙々と歩きつづけついに終着地点と思われる白銀の扉と出会う。青く紺く碧く燃え盛るステンドグラスの向こう側に隠されたもの、閉じ込められたもはこの先にあるのだ。
はやる気持ちを押さえながら扉を開けて踏み込めばそこは朽ちた聖堂であった。遙か先の祭壇に横たわるのは何者か。
「……ここにいたのですね」
いつものように当然のように身を横たえて眠っている。警戒心などどこかに置き忘れてしまったかのように。見慣れた、けれどもう二度と触れることのできない新緑の髪。いつも身に着けていたグローブは左手だけが見当たらない。
「そうでした。ええ、愚かであったのは過去でも現在でもない。わたしたちのどちらもですよ」
グローブをなくした左手。その小指にはめられたオリハルコニウムの指輪。
緑と翠の貴石を連ねた腕輪。七色にまたたく希少石が飾るペンダント。魔術に疎い彼の身を守る一助になれば贈った加護の象徴——その最後の一つ。
「約束は果たすためにあるものです」
手にしていた燭台を祭壇に放る。一気に燃え上がる祭壇と聖堂。やがて目の前の光景そのものに亀裂が生じ、剥がれ落ちていく。ぱきん、と音を立ててそれが砕け散ったときそこは暗く冷たいどこかの一室であった。
目の前には一つのガラスケース。収められているのは白骨化した左手——の小指とそこにはめられたオリハルコニウムの指輪。
自らの情報網とあらゆるコネクションを駆使し、シュウは【聖遺物】と噂されるものを何十年という時間をかけて片端から破壊して回った。死してなお彼の——マサキの亡骸が利用される様など見たくなかった。何より約束したのだ。いつかその日が訪れたなら必ず、この手で。
【聖遺物】に作り変えられてしまったそれに人であった頃の面影などあるはずもなく、中にはあまりのおぞましさから目にした瞬間、その場もろとも焼き払ったことすらあった。
そんな中で見つけた最後の一つだったのだ。変わり果ててしまった【聖遺物】の中で唯一原型を留めていた左手の小指。そして、そこにはめられたオリハルコニウムの指輪。【聖遺物】へと変わり果てた亡骸のほとんどは破壊し、残る一部は彼の家族へ——棺へ戻していた。
だからこそ、余計に躊躇してしまった。
在りし日の自分が言った通りこれを破壊すれば「最後の唯一」を自分は失う。恐ろしかった。自ら記憶を改変してこんな「小箱」にしまい込んでしまうくらいに。
「けれど、それももうおしまいです」
あの日から何十年とたった。
世界がいくつかの色を欠いてしまったこと以外、何の不自由もなく、およそ望むことのすべてを果たした人生だった。だからだろう、再び「小箱」を開ける気になったのは。
この身はもう長くない。
還さなければ。自分が生きているうちに「空」へ。
「風」が生まれる場所へ、彼を。
ガラスケースをそのままに部屋を出て屋外へ。グランゾンに搭乗することすら叶わなくなってどれほど時が流れたことか。だが、魔術と魔力は今なお健在だ。
トロイア時代の遺跡の一部を改修して建てた研究所。周辺三十数キロ圏内に市街地はない。跡形もなく吹き飛ばしたところで誰が気づこう。
天に描いた魔方陣が明滅すること三度。一条の光が魔方陣から遺跡の中心——「小箱」に向かってほとばしる。閃光と爆発は視聴覚を同時に打ちのめした。あまりの爆風にバランスを保てず膝をつく。
再び目を開いた時、そこには何も残ってはいなかった。「小箱」も遺跡も。
「……遅くなって、申し訳ありませんでした」
何もない。
ここにはもう、何も残ってはいない。無くなってしまった。
シュウは踵を返す。あの日を境に世界は色彩を欠いた。けれど帰る場所まで失ったわけではない。彼が生きていた世界は今なお続いている。
不意に風が吹いた。悪戯な風が老いて乾いた頬をなでる。しわが増えるばかりの両手を包むように風が流れていく。
「もうしばらく、こちらにいることにします」
土産話は多いほうがいいでしょう。そっと笑えばまた風が吹いた。
そう、彼が愛した「世界」は今もなお続いているのだ。
今、その日が
短編 List-2