「なあ、脳ってほとんど水なのか?」
「そうですよ、脳細胞の八〇パーセントは水分です」
どうやら先日発表された地上のニュース記事に興味を持ったようだ。
低温凍結された脳細胞を傷つけることなく解凍することに初めて成功したと発表があったのだ。そして、この冷凍・解凍のプロセスを可能にするために開発された化学薬品が「MEDY」であった。
人間の脳を冷凍保存するアイデアはSFを始めとしたフィクションの世界では早くから実現していたが、現実では大きな課題があった。冷凍保存はできても解凍ができなかったのである。
理由は前述した脳細胞の八〇パーセントが水分であるという点だ。冷凍することで水分が凍り、氷の結晶が発生して脳細胞をズタズタに傷つけてしまうのである。
「ですから、今までは研究サンプル用に脳組織を冷凍保存したとしても、解凍時に細胞が壊れてしまうので使い物にならなかったのです」
「てかよ、脳組織っていっても本物の人間のを使うわけにはいかねえんだろ?」
「そこは『脳オルガノイド』を培養して使います」
「何だそれ?」
「脳オルガノイドとは、ヒト幹細胞を利用して作製する『本物のヒト脳に似た構造を持つ小型の組織体』のことです」
脳オルガノイドは脳疾患の原因解明やその新薬を開発するための研究において活用されている。
今回の実験ではその脳オルガノイドを種々の化学薬品に浸し、液体窒素中で二四時間凍結後、サンプルを温水中で迅速に解凍し、組織の損傷具合や機能の維持、細胞の成長などを細かくチェックしたのである。
「あとは望む結果が出るまで一連の作業をひたすら繰り返します」
「何か地味な作業だな」
「実験とは地道な作業の積み重ねですよ」
そうして実験を繰り返した結果、最終的にメチルセルロース・エチレングリコール・DMSO・Y27632という四つの主要成分の組み合わせがもっとも成績が高いことを特定したのである。
「それが今回開発された新薬ってやつか」
「地上において脳の冷凍保存は今までSF世界の専売特許でしたが、これでもうSF世界の話ではなくなりましたね」
「なあ、今地上においてって言ったけどよ、ラ・ギアスだと脳の冷凍保存ってできるのか?」
「ラ・ギアスの場合は単純に冷凍保存するのではなく物質保存の魔術なども併用しますから水分の凍結による弊害を心配する必要がないのですよ」
「何かそれずるくないか?」
魔術こそファンタジー世界の専売特許ではないか。
「今のあなたはそのファンタジー世界におけるファンタジーそのものでしょう?」
風の魔装機神サイバスター操者マサキ・アンドー。風の精霊王サイフィスに望まれ、精霊憑依すら成し遂げた地上からの客人。
「とはいえ、今のところ脳の冷凍保存が積極的に推奨される事態は発生していませんし、むしろ重要視されているのは脳以外の臓器部分の保存ですね」
「移植手術とかか?」
「治癒術にも限界がありますからね」
そこはやはり地上もラ・ギアスも変わらないらしい。
「移植手術だと心臓とか腎臓の話をよく聞くけどよ、やっぱり時間との勝負なのか?」
「そうですね。ドナーから臓器を摘出して血流再開までに許される時間は心臓で四時間、肺で八時間、肝臓や小腸で一二時間、膵臓や腎臓では二四時間といわれています」
ただし、地上とは違いラ・ギアスでは魔術による保存が可能なため、限度はあるものの臓器を移植可能な状態で維持できる時間は地上に比べてずっと長い。
「そっか。じゃあ、時間が間に合わないってこともあんまりないんだな」
「それこそゲートを破壊されるか移送途中で山賊やテロリストの襲撃に遭わないかぎり、ほぼ問題なく届けられますよ」
あからさまにほっとした表情を見せるマサキにシュウは呆れを隠せない。何でもかんでも背負い込むその悪癖をどう矯正したものか。
「でもよ、脳を冷凍保存してどうするつもりなんだ?」
正直、想像もつかない。
「そうですね。一番大きな理由は延命でしょうか」
たとえ五臓六腑が無事であったとしても脳が死んでしまえば意味はない。裏を返せば脳さえ無事ならあとは最悪つぎはぎで補えるということだ。
「それもうホラーじゃねえかよ……。そうまでして長生きしたいもんか?」
「不老不死を願う人間はどの世界にも一定数いるのですよ」
「だからって、自分一人が生き残ったってどうしようもねえのによ。普通に考えればわかることじゃねえか」
「残念ですが、そんな単純なこともわからない人間が多いのが現実です」
だからこそ不老不死の伝説は地上地底を問わずはびこっているのだ。
「ラ・ギアスにも不老不死の伝説なんてあるのか?」
「精霊信仰が浸透する前まではね。今は精霊界の存在が広く認知されていますし、死んだあとも精霊界で生前通り存在できるとわかっていますから」
「不死を求める理由がなくなったってことか」
「とはいえ、精霊界で自らの存在をいつまで維持できるかは怪しい話ではありますが」
「お前な、不安を煽るようなことを言うなよ」
「これは失礼」
あからさまに眉をひそめれば両手を上げて降参のポーズを取る。
「でも、まあ。できなかったことができるようになったわけだから、悪い話じゃねえんだよな」
「今後はさらなる実験が必要でしょうが、これが実用化され応用が可能になればその可能性は何倍にも広がるでしょう」
「何かいろいろスゲぇよなあ」
退屈しのぎにとシュウが用意したタブレットを抱えたままマサキは天井を仰ぐ。世の中、知らないことばかりだ。過去においても現在においても。
「ナマコも何かスゲぇのいたし」
深海で発見された新種のナマコと見られた物体。ユニカンバーとバービーピッグ。あれを初めて見たときの衝撃は今でも忘れられない。あんな珍妙なナマコがこの世に実在しただなんて夢にも思わなかった。
「いつの間にか木製の人工衛星とかできてるしよ」
【留形隠し蟻組接ぎ】と呼ばれる日本古来の伝統的技法を採用することでネジも接着剤も使うことなく組み上げられた一〇センチ四方の立方体で作られた人工衛星。それはやがて木製の宇宙ステーションへと続く布石となるのだ。
「……ウロボロスは別に知らなくてよかったけどな」
胴回りの直径は目測でおよそ三〇センチ。体長に至っては五メートル以上はあった大蛇のウロボロス現象。駆けつけた先であんなものを直視せざるを得なかった人間の身にもなれ。しかも、数日後には二組のウロボロスと遭遇してしまったのだ。卒倒しなかっただけ褒めろと言いたい。
「退屈しのぎには役立っているようで何よりです」
「そりゃあ、お前が集めて来たやつだし、外れはねえだろ」
一拍。ぽかんとした顔を向けられこちらもまた目をしばたたかせてしまう。
「な、何だよ」
「いえ、素直に称賛されるとは思わなかったものですから」
「あ?」
「日頃の言動が言動なので」
「……」
指摘された部分にほんのちょっとだけ自覚があるマサキは思わずうぐっとうめいてしまう。不覚。反論の余地が見いだせない。
「おれだって……。褒めるときは、褒めるぞ」
「そうですね。だから驚きました」
「お前なあ」
「ええ、ですから、またデータを集めておきますよ。あなたが満足できるように」
そんな顔のあなたを見るのは私の特権ですから、と。
「そんな変な顔してるか?」
「いいえ。とても可愛らしい顔ですよ」
これが冗談ではなく本心なのだから質が悪い。
「よし、わかった。お前ちょっとそこ座れ。ぶっ飛ばす」
「お断りします」
渾身の左ストレートはあっさりとかわされた。
「ご主人様、少しはオブラードに包みましょうよ。そんな本心べらべらしゃべったらマサキさん噴火するだけじゃないですか」
呼んでもないのにどこからともなく飛んで来たのは、一羽サラウンドの特技を持つチカだ。
「もう噴火してるけどな。お前も使い魔なら少しは主人にブレーキかけろ」
「何を言ってるんですか、ご主人様ですよ。あたくしにできるわけないじゃないですかっ‼」
「うん、そうだな。お前に言ったおれが馬鹿だった」
「相変わらず仲が良いですね、あなたたち」
「ああ、何か物騒な気配が。嫉妬、嫉妬ですね。ステイですよ、ご主人様っ⁉︎」
「どこに嫉妬する要素があるんだよ、馬鹿じゃねえか。シュウ、お前も落ち着け。このままだとオチがこねえ」
「いります、オチ?」
「そろそろ腹が減ったんだよ」
人間の三大欲求は偉大なのである。
「でしたら、今日は外食にしましょう。チカ、あなたは留守番です」
「あ、八つ当たりですね、八つ当たりですね。ひどいですよ、ご主人様!」
しかし、哀れな使い魔の抗議などどこ吹く風。シュウはマサキを連れてさっさと玄関の外へ。
「あー……、土産くらいは買ってきてやるよ。それまでシロとクロの相手でもしてろ」
そしてどこからともなく飛びかかってくる自称「ネコ科の猛獣」二匹。
「前振りなしのいきなりデッドエンドサバイバルっ⁉︎」
一羽と二匹の激闘を背にマサキはシュウを追って足早に歩く。歩幅に表れる身長差八センチの非情を克服する術はこの世に存在しないのか。けれど気づけば肩を並べて歩いているのだ。悔しいことに。
「……奢れよ」
「私がですか?」
「お前が悪いんだろ」
「そうですね」
どうしてそこで嬉しげに笑うのだ、この男は。
「お前、ほんと変な奴だな」
気づけば掴んでいた外套の端。
「そんなことを面と向かって言うのはあなたくらいですよ」
そして差し伸べられた手。
「おれはガキじゃねえ」
軽くはたいて一歩先へ。こちらにも意地があるのだ。
「お前、あとで覚えとけよ」
食い終わったら今度こそ引っ叩いてやろう。
本当にこの男といると振り回されてばかりだ。
けれど本当に振り回されているのはどちらだろうか。その答えはおそらくにぎやかしな一羽と二匹だけが知っている。
SF、やめました
短編 List-2