それは祭りが好きだった。
一等好きだったのは年に一度の夜祭りだ。色鮮やか浴衣に身を包んだ老若男女が満面の笑顔で参道を歩いている。両脇には屋台が並び、お団子、かき氷、飴細工、綿飴、たい焼き、カステラなどを手にした幼子たちが人混みの中を元気いっぱい駆け抜ける。屋台に並ぶ白い狐の面は祭りの象徴だった。
時の移ろいとともに祭りの内容は変わっていった。それは祭りに参加する人間たちも同様であった。都市部からずいぶんと離れていたせいだろう。町は徐々に廃れていったがそれでも真白の鳥居は色褪せず、境内はよく清掃されほとりの池は澄んでいた。
社に集う「願い」はささやかで皆暖かく、本殿に眠るそれはそんな小さな「願い」がいとおしくて仕方がなかった。
「帰りたいの」
【卯の花色の狐の面】が啼く。
ここは遠い遠い、彼の地に遠い。
あの子らはどこへ、あのいとおしい「願い」はどこへ。
「帰ろう」
白い狐の面を付け青い浴衣を着た子どもが言う。男の子だった。差し伸べてきたのは小さな手。
風が吹く。それはほんの少しひんやりとした夜風だった。ああ、祭り囃子が聞こえる。
「あっち」
まるで先導するかのように子どもが駆ける。
そんな子どもの背を見つめながら【卯の花色の狐の面】は啼いた。
「帰りたいの」
行方不明者の数はすでに数十人に達していた。しかもわずか一週間でである。明らかな異常事態に住民たちは問題の解決を求めて行政に訴えたが、もともとラ・ギアスでも辺境に当たる地域だ。財政は厳しく人手は常に不足していた。一応、何人か魔術師も雇ってみたが数日とたたぬうちに半分が行方不明となり、残った者も顔面を蒼白にして逃げ出してしまった。
「あれは人の手に負えるものじゃない⁉︎」
住民たちは途方に暮れた。町から逃げだそうとする者もいたが誰かいつどうして行方不明になるのか一切解明されていないのだ。それがわからないかぎりどこへ逃げても同じだった。
「何か予想以上に深刻なことになってませんか?」
「そのようですね」
羽を広げ大げさに驚いてみせるチカにシュウはわずかに眉をひそめてため息をつく。
念のため町の周辺を走査してみたが魔術的な痕跡は見受けられなかった。ヴォルクルス教団の影もだ。人為的な操作が行われていないとなればこれは純粋な「怪異」ということになる。
「そっちのほうがヤバくありません?」
怪異。それは「世界」から必然的あるいは偶発的に「発生」したものだ。すなわち「世界」の一片である。はなから人の手に負える代物ではない。
「まあ、程度にもよりますがね」
「ご主人様、殺る気、殺る気ですか。殺っちゃうんですか!」
「こちらの妨げになるなら、検討しましょう」
怪異と言ってもピンからキリまであるのだ。人の手でも敵う程度の怪異であれば当然、人の手で討つことも可能だろう。問題はそれが人の領域の埒外であった場合だ。
「まあ、あなたの場合、間違っても悪意に魅入られることはないでしょうが」
生まれ持った性根もさることながら彼と縁深き風の精霊王とその眷属がそんな狼藉を許しはしないだろう。しかし、だとすれば余計に厄介だ。
悪意がない、のだ。
誰もが原因不明の行方不明事件に戦々恐々としながら、その根底にはひとつの恐怖が欠けていた。怪異に対する畏怖はあっても悪意に対する恐怖が欠けていたのである。
「本能的に理解しているのでしょうね。これが悪意による『隠し』ではないと」
「ええ、それって一番困るやつじゃないですか。話が通じる相手ならいいですけど通じなかったらお手上げのやつ」
「そうですね。それが一番困ります」
悪意を持たない純粋で強大な力。天を引き裂き大地を穿つ大嵐がまさしくそれだ。そこに暴虐の悪意はなくともただ存在するだけで世界に甚大な被害をもたらす。古代において天災はまさしく怪異の頂点であった。
「最低限必要な情報は得ました。いったんグランゾンに戻りましょう」
踏み出した瞬間、小さな衝撃がすねを蹴る。見下ろせば子どもだった。狐の面をかぶり青い浴衣を着た子ども。背格好から見るにようやく三歳を越えた頃だろうか。男の子だった。
「……あなたは」
「あっち!」
手にしていたのは風車。どこからともなく祭り囃子が聞こえてくる。だが、耳慣れぬ曲だ。シュウが知るラングランのそれではない。そう、これはマサキの母国——日本の祭り囃子だ。
「ん!」
手にしていた風車を押しつけられる。勢いに負けてつい受け取れば、満足したのか幼子はあっという間に駆け去ってしまった。まるで疾風だ。
「ご、ご主人様、今のって……」
「招待状、でしょうね」
受け取った風車。からから回る羽根から流れてくるのはほんの少しの冷気を帯びた夜風だった。
「帰りたいの」
【卯の花色の狐の面】が啼く。
移ろう時の果てに町は廃れ、ついには誰も居なくなってしまった。手入れもされず雨風にさらされつづけた鳥居はいつしか腐り倒れ、社もまた崩れてしまった。境内は草木に埋もれ、ほとりの池は泥まみれになった。
町はなくなった、社も崩れてなくなった。それでも、大事に大事に受け継いで彼らは祭り囃子を聞かせてくれたのだ。昔を語らい謡い、幼子らが風車を手に駆ける姿を見せてくれた。十分だった。それだけで十分だったのだ。
なのに、ああ、なのに!
あの子らはどこへ
あのいとおしい「願い」はどこへ
どうして『吾』はこんなところにいるのだろう
「帰りたいの」
【卯の花色の狐の面】が啼く。
風が吹いた。風車が回る。からから回る。
「帰ろう」
白い狐の面を付け青い浴衣を着た子どもが言う。左手には風車。ああ、祭り囃子が聞こえる。
「あっち!」
幼子が駆ける。
飛び石のように散りばめられた長い長い夜祭りの記憶を飛び越えた先は星々のない漆黒の夜空であった。
「帰ろう」
白い狐の面を付け青い浴衣を着た子どもの背にはラ・ギアスの空を統べる白銀の戦神が立っていた。
「帰ろう」
【卯の花色の狐の面】が啼く。
そして、当然のように白銀の戦神へ。
帰ろう、帰ろう
あの子らのもとへ
あのいとおしい「願い」のもとへ
そうしてついに白銀の戦神の足下にたどり着いたとき、ほんの少しだけ申し訳なさそうな声がかかった。
「おおよその事情はこちらでも把握しましたし邪魔をするつもりもありませんが、その前に『あなた』を返していただけませんか。確かに母国は同じでしょうが『あなた』はあなた方ではないでしょう?」
やれやれと肩を竦めるシュウに、【卯の花色の狐の面】をかぶった青年はただ不思議そうに首を傾げただけであった。
