古書店からの帰り道、見慣れたものを見た。
眉間にしわを寄せそれはそれは悲壮な顔で十字路を足早に往復する一人の青年。様子から察するに迷走し始めてすでにそうとうな時間がたっているのだろう。周囲からの視線も憐れみに満ちている。シュウは足を止めた。さすがにこれを無視するのは良心が痛む。ため息を一つ。
「何をしているのですか、あなたは」
曲がりなりにも自身は国際指名手配犯である。いくら【認識阻害の魔術】をかけているとはいえ万能ではない。マサキを保護するとシュウはそうそうにその場をあとにした。幸い近場のセーフハウスまでは五〇キロ程度。おのれの愛機とサイバスターの機動力ならば散歩にもならない距離だ。
「クエルシア社の止血剤ですか?」
到着と同時に迷子の理由を問えば新しいファーストエイドキット——いわゆる救急箱——の中身を補充するためにメーカー直営の薬局を探していたというではないか。クエルシア社はラングランでも大手の製薬会社であった。
「この前の任務でちょっと使い過ぎちまってよ。どうせなら新しいのを買おうと思ったんだ」
「今度は一体何をしたのですか」
「何って、白兵戦になったときにちょっと崖崩れに巻き込まれそうになっただけだっての」
地雷原に放り込まれるよりマシだ。胸を張ってそう主張するマサキにシュウはその場で頭を抱えそうになる。何でも落石から身をかばったさいに左手首から肘のあたりまでをざっくり切ってしまったらしい。幸い戦闘自体はすでに終了し基地への撤収途中であったためすぐさま治療が行われたそうだ。
「結構、出血してたんだけどよ。止血剤塗ったシートを張ったらあっという間に血が止まってさ」
今までほとんど使うことがなかった止血剤がまさかこれほど優秀だったとは思いもよらず、その効果に絶句してしまったらしい。
「だってよ、ほんとあっという間だったんだぜ。一〇秒くらいか? あんだけ出血してたのにすぐ止まったんだ」
あれ一体何なんだろうな。しきりに首を傾げるマサキにはシュウは事もなげに言ってのける。
「フジツボですよ」
「へ?」
「ですから、フジツボです。クエルシア社の止血剤はフジツボの接着能力を参考にしているのですよ」
地上では近年ようやく実用化された技術であったがラ・ギアスではすでに実用化されて久しい技術だったようだ。
「……あいつら止血剤になるのか?」
「言ったでしょう。正確にはその接着能力の仕組みを利用しているのですよ。考えたことはありませんか。あの接着力がどうやって維持されているのか」
言われて気づく。岩や船底、他の動植物などに固着し、微動だにしないあの連中はどうやってその接着力を維持しているのだろう。
「大ざっぱに言うと水に弱い接着成分を水をはじく油で包み込んだ状態で分泌しているのです。そうすることでぬれた岩やクジラの皮膚などの表面にある水や汚染物質を押しのけて固着しているのですよ」
「つーことは何だ、あの止血剤も血をはじく脂かなんかで薬を包んで貼りつけてる感じなのか」
「おおむねその通りです」
加えてクエルシア社の止血剤は数ある製薬会社の中でも抜きんでた効能で知られている。
「止血剤の接着に使われている成分も時間をかけて体内に吸収されていくタイプですから、傷口から自然に消えていきますしね」
「至れり尽くせりだな」
「ただ、その分、高価ではありますが」
そもそもクエルシア社の顧客の多くは軍関係者や民間の軍事・警備会社だ。その品質に合わせて高価になるのはやむを得ない。結果、一般市場での流通はどうしても少なくなる。確実に購入したいのであればメーカー直営の薬局を頼るくらいしか手段がなかったのだ。
「王都の薬局はもう売り切れててしばらく入荷の予定はないって言うしよ。聞いたら州都の薬局にはまだ残ってるかもしれないって言うから探しに来たんだよ」
「それで十字路を往復していたと」
「好きで迷ってたんじゃねえっ‼」
一気に機嫌は急降下。線状降水帯の発生である。
「これは失礼。ですが、クエルシア社ですか。それでしたら少しではありますが用意できるかもしれませよ?」
「何でだよ」
「いくつか株を所有しているのですよ。株主特権ですね」
「……お前は一体どこまで手を伸ばしてるんだ」
目の前の男が途端にうろんな不審者に見えてきた。マサキは半目になる。本当にこの男ときたら。
「人の善意は素直に受け取るものですよ」
「見返りが前提の善意は善意って言わねえんだよ」
それなりに長いつき合いだがいまだにこの男は得体が知れない。だが、魔装機神操者として戦場の最前線に立つことが多いマサキにとって止血剤は命綱の一つだ。私情を理由に事欠くわけにはいかない。
「ちゃんと代金は払うからな」
「当然です。とはいえ今回はものがものですから剣の相手をお願いする程度で妥協しておきましょう」
無難な見返りだった。一も二もなくマサキは了承する。今やマサキの相手を務められる人間はほんの一握りになっていたのだ。むしろ望むところである。
「次来た時に相手してやるよ!」
「期待していますよ」
少なからず日頃の鬱憤もたまっていたのだろう。喜々とした表情にこちらも自然と笑みが浮かぶ。同時にこれは相当に気を引き締めてかからなければとも思う。いまだ剣神ランドールの聖号には至らずともその歩みは決して遠くはない。こと武技に関するマサキの成長速度は驚異的だ。もとより油断などできる相手ではない。
「とりあえず、お茶を用意しますからいったん休憩しましょう。ずいぶんと歩き回ったのでしょう?」
「まあ……、それなりに」
再び急降下を始める機嫌にシュウは棚にしまっておいたクッキー缶を思い出す。ひとまずあれで気をそらしておこう。
「そういえばよ」
「何ですか?」
「ラ・ギアスにもフジツボっていたんだな」
それが一番びっくりした。
大変素直で正直な感想だと感心すればいいのか呆れ返ればいいのか。こちらも呆気にとられたシュウはしばらく脳裏の奥で適当な返事を模索しなくてはならなかった。
「驚くところはそこですか」
フジツボですが?
短編 List-2