まるで白いソックスを履いているかのように足先だけ色が違う猫のことを靴下猫というらしい。そして、今マサキの目の前で老婦人の腕に収まって午睡を満喫している「彼」こそ、真っ黒の毛皮に真っ白い尻尾と靴下が印象的なステラ家の靴下猫「マーサ君」であった。
「いや、何でよりにもよってその名前」
マサキの脳裏をよぎるのは地球連邦軍の個性豊かなエースパイロット。
「ハァイ、マーサ! どう、進展してる? してるわよね? してるでしょ? 素直に白状しなさい。お姉さん大歓迎よ。お祝いしちゃうっ‼」
エクセレン・ブロウニング。理由は今も不明だが地球連邦軍の中で唯一彼女だけがマサキのことを「マーサ」と呼んでいたのだ。ちなみに何についての進展であるかは未来永劫黙秘権行使である。
ターシャ・ステラ。暇つぶしに見ていたTVで特集されていた絵本作家にして園芸家。独身で子どもは養子の息子が一人。今現在息子夫婦が管理しているその「庭」は広大でまるでひとつの「絵本」を見ているかのようだった。剣と魔術が当たり前に存在するラ・ギアスにおいてなお「絵本」を連想させるほどの「庭」。実物を見たくなったのだ。
「…………まあ、広いのは知ってたけどよ、まさかここまで広いとは思わなかったぜ」
何せ某ドーム球場二〇個分の面積である。しかし、個人の「庭」に地図や標識、信号機に立て看板などがあるはずもなく真っ昼間ながらマサキは危うく遭難しかけた。
「にゃあ」
そんなマサキの足下で一声鳴いたのが「マーサ君」であったのだ。マサキは跳ねるように歩く「マーサ君」を追って何とかステラ家にたどり着くことができたのだった。
「ええ。広い『庭』ですからどうして迷う方が出てしまって。そのたびにこの子が案内してくれるんです。我が家に——私にとってとても頼もしい騎士なんですよ。それでも、まさかあなた様まで連れてくるとは思いませんでしたけど」
花がほころぶような笑顔だった。すでに齢八〇を超えているというのにまるで少女を相手にしているかのようだ。愛猫を抱くその両手も生涯のほとんどを庭作りに捧げたがゆえに指先は黒く汚れ傷跡だらけで痛々しかったが、彼女の笑顔を見たあとではまるで宝石のように輝いて見える。
マーサがマサキを案内した先は「庭」の外れ。今は婦人が一人余生を過ごす別宅であった。別宅の裏には小さな森。奥に進むと渓谷がありそこにかかる橋は最寄りの町に通じていた。
「本宅は『庭』の奥にあるのですが老いた身ではどうにも移動がつらくなってしまって、息子夫婦がこの家を建ててくれたんです」
別宅に移り住んでそろそろ三年になるらしい。だが、庭作りは今も続けているらしく別宅の正面には手入れの行き届いた小さな薔薇園があった。
「ほんと庭作るのが好きなんだな」
「ええ、幼い頃からの夢でしたから。そのうえあなた様までお招きできて」
望外の喜びです。かしこまる婦人にマサキは慌てて首を振る。
「いや、それやめてくれ。みんなには悪いけどほんと苦手なんだよ、その呼び方」
救国の英雄。「地上人召喚事件」を解決した功績から知らぬ間に近衛騎士団の師団長に推薦され、まさかの当選。地上から帰還してすぐ報せを受けたマサキはしばし呆然と突っ立つ羽目になった。テュッティたちが代理で辞退してくれなかったら今頃どうなっていたことか。
「普通に名前で呼んでくれたほうが助かる」
「それは……、でしたらせめてマサキ様と」
「まあ、それくらい……、なら」
「にゃあぁ!」
少し気まずくなった空気を察したのか間延びしたけれど明確に何かを欲する鳴き声が鼓膜を揺らす。
「あら、あら。ミルクが欲しいのね」
するりと婦人の両腕から抜け出したマーサは定位置らしいテーブルの端に飛び乗ると前足をそろえてちょこんと座る。真っ白い尻尾はぴんと伸びて上機嫌だ。
「言ってること、わかるのか?」
「ええ。子どもの頃からのつき合いですもの」
「ん?」
猫の寿命はどれほど長くとも四〇年程度だと聞く。しかし、婦人の年齢は八〇過ぎ。子どもの頃からのつき合いとなればその倍を生きていることになる。
「この子は三代目なんですよ」
「三代目?」
初代「マーサ君」は婦人の母親の代からステラ家に通っていた野良猫で、ステラ家に迎えられてからは寿命が近くなると家を抜け出して数日後にまた同じ猫が戻ってくるのだという。
「私が子どもの頃からずっと家を守ってくれているんです」
「へえ、そんなこともあるんだな」
なるほど。それは立派な騎士だ。ちょっと尊敬してしまう。
「それにしても、お前、めずらしい色してんだな」
陽の光にきらめく翠玉の瞳。本当に宝石をのぞき込んでいるのではないかと錯覚すらしてしまう。
「ええ。とてもきれいな色でしょう。子どのもの頃は本物の翠玉だと信じていたくらいなんです」
ただ、最近は少し不安があるという。
「何かあったのか?」
「この瞳の色がとても気に入ったとかでマーサを譲って欲しいと……」
どうも定期的にあるらしい。「庭」を訪れた人間たちの幾人かがマーサの外見——特にその瞳を気に入って譲渡を申し入れてくるのだそうだ。
「はぁ? 何だよそれ!」
飼い主もだが何より「本人」の意思などまるで無視した話ではないか。
「ほとんどの方はお断りすれば素直に引いてくださるのですが」
最近、金を積んででもマーサを引き取りたいと迫ってくる人間がいるのだという。
「金で解決だあ? ろくな奴じゃねえな」
「資産家の方らしくて大変な愛猫家だと聞いてはいるのですが」
「いや、金積んで飼い主から取り上げようとしてくる時点でもう愛猫家じゃねえだろ」
どう考えてもペットをアクセサリーの類いと勘違いしている人種だ。譲渡など論外である。
最近では家の周辺で怪しげな気配も感じるらしく、息子夫婦のいる本宅へ一時的に避難するか否かを話し合っている最中らしい。
「……」
マサキは眉間にしわを寄せ思案する。今は金を積むだけですんでいるがこのまま婦人が断りつづければ間違いなく連中は強硬手段に出るだろう。本宅へ避難しても結果は同じだ。であれば今優先すべきは避難先の確保ではなく連中からの物理的な干渉をはねのける術を得ることだ。
「なあ。ちょっと時間くれねえか」
「マサキ様?」
「今すぐ全部は解決できねえけどよ、そいつらを近づけなくする方法なら何とかできるかもしれねえ」
「にゃあ!」
婦人よりも先に同意の一声を上げたのはマーサであった。
「……わかりました。お願い致します」
マサキはすぐさま踵を返し、別宅を飛び出した。
「私はあなたの便利グッズになった覚えはないのですが」
「だから、ちゃんと礼はするって言ってるだろっ‼」
サイバスターの最大加速でラ・ギアスの上空を駆け巡ること小一時間。データにインプットしておいた最寄りセーフハウスにとりあえず駆け込んでみれば、目当ての人物は数枚のレポートを手に研究室のロックを今まさにかけんとする寸前であった。
「それにしても、穏やかな話ではありませんね」
老齢の婦人を相手に金を積んで譲渡を迫るなど礼節からはほど遠い所業だ。そのうえ自宅周辺に不穏な気配まで感じるという。これはいつ強硬手段に出てもおかしくはない。
シュウはマサキが口を開く前にグランゾンのコクピットへと放り込む。もはや一分たりとも迷子になっている余裕はない。飛行速度を優先するならこれが最善の選択だ。
「ふざけやがってっ‼」
マサキが道に迷った時間も含め別宅に戻るまでにかかった時間は一時間半にも満たない。だというのにこの惨状は何なのか。無惨にも窓は割られ、よほどの力で殴りつけられたのだろう木製のドアは真ん中が凹んであちこちに亀裂が入っていた。そして、部屋の奥には力なく床に伏した老女の姿が。
「ばあさんっ⁉︎」
駆け寄り抱き起こす。微量であったが額からは頬に向かって流れる血はまだぬれている。悪意の襲撃はつい今し方のことだったようだ。
「シュウ、ばあさんを頼む!」
駆けだした先は別宅の裏。小さな森の奥には最寄りの町へと通じる橋がかかっている。強盗どもが向かうとすればそこしかない。だが、薄暗い森の中をやみくもに駆け回ったところでどうして追いつけよう。
「にゃあ」
空耳だろうか。振り向いた先には猫がいた。奪われた猫とうりふたつの猫が。翠玉の瞳がきらめく。
「にゃう!」
「え、おい⁉︎」
ほとんど反射で追いかけてしまったが気つけば橋の手前まで追いついていた。何という幸運。そして、目の前にはキャリーバッグを抱えたいかつい男どもが三人。
「待ちやがれっ!」
「ひっ⁉︎」
怒気に震える大音声が三人の強盗を打ち据える。一人が振り返りマサキを見るなり悲鳴を上げた。
「嘘だろう……。あいつ、ランドールだっ⁉︎」
「おい、早くしろ。もう捨ちまえ、そんなもんっ‼」
「ちくしょう、大損だ!」
名前とは時にそれだけで物理的な暴力に勝るらしい。自らの敗北とその果ての刑罰を怖れた強盗たちはあろうことか抱えていたキャリーバッグを橋の上から投げ捨てたのである。
猫は水に弱いと聞いていた。容易に溺れてしまうとも。ましてやキャリーバッグに閉じ込められているのだ。このままでは確実に溺れ死んでしまう。
「マーサっ‼」
気づけば欄干を蹴っていた。
室内の状況からして悪意ある襲撃者が振るった暴力はそうとうなものだったに違いない。だというのによくもこの程度の軽傷ですんだものだ。シュウはひとまず老婦人を寝室へと運び、再び現場へと爪先を向ける。「呼ばれた」気がしたのだ。
「にゃあ」
そこには翠玉の瞳を輝かせた猫がいた。奪われた猫とうりふたつの猫であった。
「……ああ、あなたでしたか」
息を飲む。まさかこんなところで「本物」に出会えるとは。これは出過ぎた真似だったかもしれない。シュウは得心する。強盗とその依頼主たちはこれからその罪科に見合った厄災に見舞われるだろう。彼らは「騎士」の逆鱗に触れたのだ。
「みゃあ」
まるでシュウを案内にするかのように猫が駆ける。向かう先は裏手にある小さな森の奥。マサキの話では最寄りの町に通じる橋がかかっているはずだ。
「マサキ⁉︎」
案内された先は橋ではなくその真下にある河原だった。壊れたキャリーバッグかばうように抱きしめ、ずぶぬれの状態で河原に倒れたマサキに寄り添うように猫はいた。シュウは足下を見る。つい先程までシュウを先導していた猫はまるで煙のようにかき消えていた。
「あなたが『マーサ』ですか?」
「にゃう」
橋の上から河原まで優に十数メートルはある。そのうえこの川は底が浅い。キャリーバッグを抱えた状態で落下すれば大怪我どころではすまないだろう。無傷などまずあり得ない。だというのに全身がずぶぬれなだけでマサキの身にはかすり傷ひとつ見受けられなかった。
「にゃあ」
「そうですね、後はお任せします。婦人のことはこちらで手配しておきましたから安心してください。それとついでと言ってはなんなのですが、送っていただいても?」
風邪は万病の元なので処置を急ぎたい。図々しくもそう願えば寛大な「騎士」は心得たとばかりに一声鳴いた。
「みゃう!」
