片っ端からチャンネルを開いた。今現在シロがいるのはバゴニアとの国境に隣接する小さな町のそばだ。正直、ここで救難信号を出すのは賢明ではない。バゴニア軍に状況を把握される恐れがあるからだ。だが、事態は逼迫している。シロにはためらう余裕すらなかった。
「誰か、誰か、誰でもいいんだにゃ。誰かっ‼」
物言わぬモニターに向かって叫ぶ。
主人であるマサキはいない。対であるクロもいない。
そう、いないのだ。
無念にも逃げ切れたのはシロだけだった。
ほんの数分、あるいは十数分。もしかしたら数時間だったかもしれない。シロは叫びつづけた。誰か応えて欲しい。この身が消滅してしまう前に、誰でも良いから!
「何事ですか」
天の采配とは腐れ縁の別名らしい。シロは恥も外聞もかなぐり捨ててモニターに映った男に泣きついた。
狂乱状態のシロに事態の緊急性を察したシュウは座標を確認するとすぐさま現地に急行した。町から数百メートルほど離れた林の近くにサイバスターはあった。一応、目くらましの結界は張っていたようでシュウはそれを解いて【隠形の術】でグランゾンともども隠し直す。
「状況を確認します。何があったのですか?」
泣き腫らした目でシロは事の次第をまくし立てる。それは災難というよりも惨事といって差し支えないものであった。
小さな町でありながらいつも通り迷ったマサキはとある民家の庭先に出た。そこは町でも評判の大工の家でマサキはこれまたいつも通り道をたずねた。王都から遠く離れた町であったからか幸い大工はマサキの顔を見ても別段驚かなかった。むしろ、こんな小さな町で延々と迷いつづけたマサキの「特技」に口をあんぐりと開けていた。
「あんたみたいな方向音痴は生まれて初めて見たよ」
ちょうど作業中だったらしく、一段落したら仕事のついでに町の出口まで送ってやると大工は言った。大工の名はダンスンと言った。
ダンスンは歩き疲れたマサキにコーヒーを振る舞った。妻の故郷の特産品なのだと鼻高々に語る自慢話は十数分に及んだ。
「あんたほんと奥さんが好きなんだな」
もはや呆れるのも疲れた。脱力感に肩を落とすマサキとは対照的にダンスンは胸を張ってうなずいて見せる。
「おう、当然だとも。おれにとってクシャリアは世界一だ!」
快活で陽気なダンスンの表情が一変したのはマサキの足下に目を向けた直後のことだった。
「……猫?」
「ん? ああ、こいつらはシロ、クロって」
「猫は駄目だっ‼」
豹変。まさにその言葉通りダンスンは目を見開き、青筋を立て拳を振り上げ吠えた。
「猫は駄目だ。猫は駄目だ。猫は駄目だ。猫は駄目だ。猫は駄目だ。猫は駄目だ。猫は駄目だ。猫は駄目だ。猫は駄目だ。黒猫は絶対に駄目だっ!」
ダンスンの目は血走っていた。
「クシャリア!」
愛する妻の名を叫び、ダンスンはイスを掴みクロに向かって振り上げる。
「逃げろ、クロ! 何すんだテメェ‼」
「マサキ、危ないんだにゃ!」
勇敢にもシロがダンスンの腕を引っかく。
「猫、が……、しゃ、べ……」
「使い魔」の存在を生まれて初めて目の当たりにしたダンスンはまるで雷にでも打たれたかのように立ち尽くし、そして——爆発した。
「やはり魔物かああぁぁ——っ‼」
机を倒しイスを投げ、振り回し、ついには仕事道具の金槌まで持ち出してきたダンスンはとにかくクロを追い回した。それこそ親の敵を追うように。
ダンスンは中肉の男であったが上背があり仕事も相まって筋骨隆々であった。とはいえ、百戦錬磨の戦士であるマサキからすればただの素人だ。叩きのめすのは容易だった。しかし、状況が状況である。まずはダンスンの執拗な殺意からクロを逃がすことが優先であった。
「シロ、クロ。こっちだ!」
目の前にあった窓を蹴破り庭へ。しかし、このまま町へ出ればほぼ間違いなくダンスンはマサキを追って町に飛び出してくるだろう。それだけは回避しなくてはならなかった。
逡巡する。目についたのは工房。ちょど作業中だったからだろう。戸は開いていた。一時的に隠れる場所があるかもしれない。なかったとしても適当な木材か何かあるだろう。とにかくダンスンを無力化しなくては。
「でも、でも……、まさかあんなものがあるだにゃんて、思、わ……なく、て!」
「落ち着きなさい。少なくともあなたが無事であるということはマサキもクロも生きているという証拠でしょう」
しかし、声を出す気力すら失ってしまったのだろう。シュウの腕の中でぐったりとしたシロはもう何も答えなかった。
「チカ」
「はい、ご主人様」
「大工の家ですがシロの話から大体の位置は掴めました。先に行っていなさい」
「承知しました」
忠実なローシェンが飛び去るのを見送ってからシュウはもう一度腕の中で動かなくなったシロを見る。
地下室。シロが最後に口にしたのはその三文字だ。マサキたちは何を見たのか。そして、そこには一体何が「在った」のか。
シュウ自身が口にしたように主人が生きているかぎり使いは消滅しない。シロが無事である以上、少なくともマサキとクロはまだ生きているはずだ。
「まったく、今回はお説教だけではすませませんよ」
嫌な予感とは往々にして当たるものだ。数分後。
「ご主人様——っ⁉︎」
声をひっくり返して絶叫するおのれの使い魔にシュウは悪夢の二文字を痛感する羽目になるのだった。
運命の日。
「クシャリア。クシャリアどうしてわかってくれない。妻から離れろ、この化け物が!」
「やめて、ダンスン。この子に何の恨みがあるのっ⁉︎」
我が子を抱けない代わりに町の野良猫たちを世話するようになった妻は次第に笑顔が増えていった。それ自体はとても喜ばしいことだった。だが、妻の腕に抱かれ、幸せそうに喉を鳴らす野良猫たちがダンスンは気持ち悪くて仕方がなかった。
野良猫たちを毛嫌いするダンスンに妻は日を追うごとに冷たくなっていき、ダンスンは悲嘆に暮れた。その悲嘆はやがて野良猫たちに対する憎悪を燃やす薪となった。
そしてついに事件は起きた。ある嵐の日、猫が家に紛れ込んでいたのだ。よりにもよって黒猫だった。招いたのは妻だ。長い時間雨に降られていたのだろう。ぐっしょりと全身を濡らして小刻みに震える黒猫を妻は慈悲深くまたいとおしげに抱いていた。
ダンスンは妻の手から黒猫を取り上げ、全身全霊をかけて床に叩きつけた。悲痛と絶望の絶叫は妻の喉を裂いた。だが、しぶとくも黒猫は生きていた。閉じ忘れていた戸の隙間から逃げ出した黒猫を追ってダンスンは雨の中飛び出した。汚らわしい黒猫は許し難いことに窓から工房へと逃げ込んだ。
ダンスンに取って工房は「聖域」であった。あの黒猫は妻の愛情を奪っただけでは飽き足らずダンスンの「聖域」までも汚したのだ。ダンスンは奪われた妻と「聖域」の「復讐」を決意した。握りしめた愛用の金槌と鑿はダンスンの決意そのものであった。
「やめて、その子に触らないで‼」
そうして妻はダンスンの目の前で黒い化け物に食い殺されたのだった。
「なるほど、ポー『黒猫』ですか」
地下室の奥にある「壁」は崩れていた。
事実は小説より奇なり。否、むしろ事実がようやくフィクションに追いついたと言うべきか。嫉妬と憎悪の末に正気を失った男は妻を食い殺した憎き化け物を「壁」に封じ込めていた。そう化け物と幻視して殴り殺した妻の亡骸を。その足下には寄り添うように事切れた黒猫が一匹。そして、そのすぐ隣には乱暴に放り込まれたのだろうマサキとクロが倒れていた。
「この人、泡吹いたままずっとぶつぶつ言ってるんですけど……。どうします?」
妻を手にかけた時点で半ば正気をなくしていたのだろう。背後に立つシュウに気づくことなくダンスンはぶつぶつと妻の名を口にしながらレンガを積み始めていた。化け物を一刻も早く「封じる」ためだ。正気を失ってなおダンスンは妻を愛していた。
「自警団にはあとで連絡しておきましょう」
今優先すべきは別のことだ。シュウはマサキとクロを壁の奥から救い出す。
「特に目立った外傷はないようですね」
家と工房の惨状を見れば相当な修羅場であっただろうに。ぐったりと動かないクロにも大きな傷は見受けられなかった。
「ひとまずセニアに連絡を取っておきましょう」
すぐに最寄りの州軍病院を手配してくれるはずだ。
立ち去る寸前、鏝を手に再び「壁」を閉じ始めたダンスンをシュウは一瞥する。
「あなたは本当に幸せな人ですね。生きているかぎり、永遠に失ってしまった者と永遠の愛を享受しつづけられるのですから。とても救い難く——無惨だ」
けれどそれほどの情念を抱ける人間に出会えた奇跡には素直に称賛を贈ろう。奇跡とはそれほどまでに得難いものなのだから。
「さて、帰りましょうか。長居は禁物です。何より……これはあなたが見ていいものではありませんからね」
この世は救い難いもので溢れている。だから、触れずにすむならそのほうがずっといい。過保護だ何だとまた口のへの字に曲げられるだろうが過保護で結構。ようやく手にした唯一無二。大事にしまって何が悪い。
「もう少し平穏に過ごしたいものです」
背を向けて地下室を出る寸前、聞き慣れた鳴き声が鼓膜に触れた。
「にゃあ」
振り返れば「壁」の奥、夫人の足下で事切れていたはずの黒猫が琥珀の瞳を大きく見開いてシュウを見つめていた。
「にゃあ」
まるで礼を述べているかのように尻尾を一度だけ振って次の瞬間には今度こそ目を閉じて動かなくなった。ダンスンがそうであったように「彼」の「復讐」もまた完遂されたようであった。
「本当にもう少し平穏に過ごしたいものですね」
二度と振り返らなかった。
