ビューネイに毒を盛ったのはやはりエメラルドであった。理由は言うまでもなく業者の息子と引き離されたことへの復讐だ。
「でもよ、毒を入れる隙なんてなかっただろ?」
素人のマサキにはそれが不思議で仕方なかった。お披露目の間、ビューネイはエメラルドを片時もそばから離さなかったのだ。
「これは長年研究を続けてきた奥様の成果なのですが、【眠れる森の美女】は特定の薬草と混ぜることで効果が相殺されるのです」
ただし【眠れる森の美女】の毒性があまりに強烈なためどうしても薬草の効果が先に切れてしまう。【眠れる森の美女】の毒は即効性があり、その効果が発揮されればもがき苦しむ間もなく致命的な心臓発作でほぼ即死する。
「ああ、時間差のトリックですか」
フィクションでは比較的ポピュラーな手法であろうがそれをリアルで実行できるかどうかはまた別の話だ。毒の比率やその濃度を正確に把握するためには一度や二度の実験で足りるはずがない。ましてや扱うのは【眠れる森の美女】なのだ。それをわずか数ヶ月で成し遂げたのであればもはや狂気の沙汰であった。
「お嬢様が奥様に毒を盛ったのは先日の朝食です。それか中和剤を混入させながら時間を延ばし」
「先程の惨劇に至ったと?」
「……はい」
「でも、何でわかったんだ?」
マサキからしてみれば疑惑はあれど確証はなかった。先日からすでに仕込まれていたなどとどうしてばれたのだ。
「私が……、私がご兄姉様に告げたのです。奥様を殺したのがエメラルドお嬢様だと」
「はあっ⁉︎」
すっとんきょうな声を上げて跳び上がるマサキとは対照的にシュウの表情が一気に険しくなる。
「告発の理由を聞きましょう」
「わ、私はお恐ろしくなったのです。こんな、こんな恐ろしいことにはもう耐えられなくなってっ⁉︎」
先代の頃からハディソン家に仕えていた庭師にとってエメラルドは孫のような存在だった。そして、母親からの厳しい英才教育に耐えていたエメラルドにとっても庭師は祖父ほど年の離れた友人のような存在であった。
業者の息子と恋仲になったことエメラルドが唯一打ち明けたのも庭師だった。だが、庭師は素直に祝福できなかった。あまりにも家柄が違い過ぎる。何よりエメラルドは成人まで間がなかった。そろそろ縁談話も持ち上がってくるだろう。
「いいえ、私は諦めないわ。絶対に絶対に諦めない!」
狂恋。恋は少女をたやすく狂わせた。
毒殺による「女王」簒奪。両手を握り合わせ頬を上気させながらエメラルドは庭師に計画を語り聞かせた。
「あなたは反対しなかったのですか?」
主人に対する暗殺計画だ。倫理に反している。
「恐ろしいとは思いました。ただ、エメラルドお嬢様に対する奥様の『教育』は常軌を逸していたのです。……哀れでした」
表面上は気丈に振る舞っていてもその内心は常に悲嘆でまみれていた。そんな少女が突然訪れた天上の春に心を躍らせ恋の奇跡を熱弁してくるのだ。少女が恋に狂ったように庭師もまた徐々に少女の狂気に染まっていった。
だから庭師は最終的にエメラルドの狂気を黙認したのだ。その先にあり得るはずもない少女の幸福を願って。
「何だよそれ。知ってて……。あんた、人が死ぬって、子どもが親を殺すってわかってて黙ってたのかっ⁉︎」
「やめなさい、マサキ。もう終わったことです」
「終わったって……!」
「ここから先は私たちが立ち入るべきではない。私たちは『部外者』でしかないのですよ。判断を誤ってはいけません。——事情はわかりました。それで、あなたは我々に何を助けてほしいというのですか?」
甚だ不本意ではあるがこうなってはカーテンコールの裏側まで「観客」としてつき合うしかあるまい。
「恥知らずな願いであることは重々承知しております。ですが、今のお嬢様を人目にさらすことはとても耐えられないのです。どうか、どうかお嬢様を弔うために手をお貸しください」
庭師はその場にひれ伏し何度も頭を下げた。
「今のお嬢様って……、何かあったのか?」
「【眠れる森の美女】は摂取した量によって皮膚に極端な反応が出ます。今のお嬢様の左半身は緑色の斑点だらけでそのお顔にも……」
だから、一刻も早く弔ってやりたい。庭師の言葉に偽りはなかった。
「……」
「何だよ、難しい顔しやがって。何かあるのか?」
「いえ、ただの気のせいですよ。それより彼に手を貸すのでしょう?」
促せばマサキは慌てて庭師に向き直る。庭師は用意していた手袋を何重にも重ねてマサキに手渡した。
庭師の告発によって罪を暴かれ、絶望に耐えかねて命を絶った娘の身体は確かに惨い有り様であった。
棺を用意する時間などあるはずもなく、庭師はエメラルドの亡骸をありったけのシーツでくるみ「庭」の端へ弔った。幼い頃よりお気に入りの場所であったらしい。
「正式な準備が整えばまた改めて棺に移します」
だが、その所業を考えれば代々続くハディソン家の墓に入ることは不可能だろう。墓碑すら許されるかどうか。
「では、私たちは部屋に戻らせてもらいますよ」
罪悪感に打ちひしがれる庭師に一瞥もくれず、シュウはマサキを連れて足早に部屋へと戻った。
「なあ、やっぱりまだおかしくねえか?」
理屈を飛び越えた直感は恐ろしい。シュウは軽くこめかみを押さえ大仰にため息を吐く。できれば気づかずにいてほしかったのだが。
「何がですか?」
「いや、だってあの斑点……。ばあさんのときはなかっただろ? あと庭師のじいさんが言ってたじゃねえか。【眠れる森の美女】は摂取した量によって皮膚に極端な反応が出るって」
普通に考えればエメラルドの惨状は一定以上の量を摂取した結果だろう。だが、ビューネイの死体にあの無惨な斑点はなかった。
「もっともな疑問ですね。それで、あなたはどう思いましたか?」
「何て言うかよ……、そう、あれだ。全身に毒が浸透したっていうか、身体全体に行き渡ったからあんなあちこちに斑点が出ちまったんじゃねえかって」
「生活反応ですね」
「何だそれ?」
「法医学の用語で諸種の侵襲。たとえば異物・毒物・異常温度などが作用した痕跡が死体に認められる時、それが生存中に作用したことを示す生体特有の反応のことです」
【眠れる森の美女】は即効性のある猛毒だ。半滴もあれば人ひとりを容易に即死へと追いやることができる。
「乱暴な推測になりますがエメラルド嬢の身体にあった斑点は生前、一定時間にわたって【眠れる森の美女】の作用が現れたことを示す生活反応でしょう」
ビューネイの身体に斑点がなかったのはほぼ即死に近い状態であったからだ。
「生前に一定時間って、でもあれ一滴でも飲んだら即死しちまうんだろう?」
そんなものを飲んで一定時間生存するなど不可能ではないのか。
「そうですね。可能性としては毒を希釈して飲んだか」
「希釈?」
「薄めることですよ。ただ、仮にそうであった場合、目的がわからない」
命を絶つことが目的であれば【眠れる森の美女】をそのまま口に含めばいい。希釈して毒性を薄めれば必然的に効果も薄まるだろうがもともとの毒性を考えれば微々たる差だろう。むしろ苦しむ時間が増えるだけだ。
「彼はまだ何かを隠しているようですね。チカ」
「はい、ご主人様」
「しばらく彼を見張っていなさい。異常があればすぐ報せるように」
主人殺しの大罪と知りながら恋に狂った少女の片棒をかついだ男だ。そもそも罪悪感に耐えかねてエメラルドを告発したという懺悔自体、果たして真実なのかどうか。
チカからの報告があったのは日が暮れてから数時間後のことだった。何かしらを詰めた革袋を手に庭師が出かけたというのだ。目指した先は「城」から三〇分程離れた街の外れでそこには馬車が用意されていた。庭師は誰かと待ち合わせをしていたのである。
「でも、いくら待っても相手が来なかったみたいで。今慌ててこっちに帰ってきてます」
庭師が「城」戻るまでもうしばらく時間がかかるだろう。
「……」
「シュウ?」
「マサキ、あなたはこ」
「行くからな!」
八センチ下の世界から向けられるのは不満で塗りつぶされたジト目だ。
「まえまえから言いたかったんだけどな、お前はおれを何だと思ってんだ」
「あなたと侮ったわけではありませんよ。ただ、私の精神衛生上の問だ」
「じゃあお前が慣れろ!」
何という横暴か。しかし、一度こうなってしまったら梃子でも動かないのは過去の経験から十分思い知っている。シュウに拒否権はなかった。
向かった先は「庭」の外れ。エメラルドが弔われた場所であった。
「嘘だろうっ⁉︎」
土は掘り返されていた。否、この様から見るに掘り返されたのではなく土の下から何かが這い出してきたのだ。
「なるほど。理由はこれですか」
「おい、何だよ。ひとりで勝手に納得してんじゃねえ!」
「エメラルド嬢が【眠れる森の美女】を希釈して飲んだ理由です。これが目的でほぼ間違いないでしょう」
その視線が指し示した先は暴かれた「墓」。
「最初から彼女は死んでなどいなかった。仮死状態だったのですよ」
おそらく【眠れる森の美女】を希釈することで意図的に仮死状態を作り出したのだろう。毒の女王すら毒殺した毒の王女だ。仮死状態になるために必要な希釈の計算式も当然理解していたに違いない。そして、庭師もやはり共犯であったのだ。彼の告発はこの「脱出」のための布石だったのだろう。
「……それほどですか」
狂恋。恋とは狂うもの。狂わせるのが恋だ。
チカの報告からして庭師はエメラルドの蘇生後、業者の息子との逃避行のために馬車と必要な物資を用意していたのだろう。待ち合わせていたのは互いに手に手を取って駆けてくるエメラルドと業者の息子であったに違いなかった。
「茶番ですね」
何て粗末な幕引きだろう。
恋に狂った少女は恋に破れて堕ちたのだ。
この有り様からして業者の息子はエメラルドを迎えには来なかったのだ。だからこそエメラルドは自ら土をかき分けて這い出てきた。向かった先は十中八九業者の家。
「帰りましょう。もう——間に合いません」
眠れる森の美女
短編 List-2