ハントゥ・トゥラング・マワス - Hantu Tulang Mawas
マレーシアに伝わる精霊の一種。
マレー語やインドネシア語では霊的な存在を「ハントゥ」と言い正式にはハントゥ・トゥラング・マワスと呼ぶ。
「トラング・マウス? なんだそりゃあ」
「正確にはハントゥ・トゥラング・マワスですよ」
マレーシアに伝わる精霊の一種で死んだオランウータンの白骨死体が一〇年ほどの歳月を経て変じると言われている。極めて凶暴な性格でジャングルを徘徊しては見かけた人間を鋭利な爪で惨殺するのだ。ハントゥ・トゥラング・マワスに対処する唯一の方法は雨のような音を鳴らすことで、これはハントゥ・トゥラング・マワスが雨を極端に嫌うためである。
「いや、何でんなもんがラ・ギアスにいるんだよ」
「どうやら地上の文化に造詣が深い目撃者がいたようで、よく似ていたからとひとまずそう命名されたようですね」
「安直なネーミングしてんな」
「目撃者もあなたにだけは言われたくないでしょうね」
ネーミングセンスに関してはマサキのほうが何事においても安直で大ざっぱなのだ。実際、「被害者」である使い魔たちからは改名要求のクレームが上がっている。
「しかし、実害を見るにあながち間違った命名ではないでしょう」
マワスの被害者はすでに十数人。幸い死者こそ出ていないものの被害者の多くは四肢損壊に近い被害を被っており、手足をへし折られたくらいならむしろラッキーと言っていい。あまりの惨状にどうして生き延びてしまったのかと嘆く被害者すらいるのだ。
「……ほんとよく死者が出なかったな」
滔々と語られる被害状況は健康な若者の食欲を減退させるのに十分な威力を持っていた。
「ったく。たまの休みに来てみればこれだよ。お前、よっぽどトラブルに好かれてんだな」
「生来のトラブルメーカーが何を言っているのですか。あなたに比べれば十分マシですよ」
何でも信頼のおける研究用総合機器メーカーの担当者が襲われたらしい。長年のつき合いらしくわざわざ入院先の病院へ見舞いにまで行ったとか。
「マワスの正体は不明ですがその性質が地上のハントゥ・トゥラング・マワスに近しいのであれば事態は深刻です」
ハントゥ・トゥラング・マワスは極めて凶暴な性格でジャングルを徘徊しては見かけた人間を鋭利な爪で惨殺する。もちろん対象に区別はない。無差別だ。
聞けば目撃されているマワスは単独ではなくグループで襲ってきたという。まず一匹が足止めをし、残る数匹が正面、頭上、左右から一気に距離を詰めて襲いかかってくるのだ。とてもではないが逃げられるものではない。
「えげつねえな。でも、だとしたらよく無事だったな、その目撃者。何か反撃でもしたのか?」
「いえ、襲撃に驚いて溝に落ちたらしく、全身ヘドロまみれで座り込んでいたそうです」
「何でそれで無事だったんだよ」
まったく、わけがわからない。
マワスの「出所」が判明したのは翌朝のことだ。シュウの個人的なネットワークに該当する情報がヒットしたのである。それを補強したのは趣味のハッキングにいそしんでいたセニアだ。内容は最悪だった。
「は、商品?」
露骨に顔をしかめるマサキにモニターの向こう側にいるセニアも同意するわと眉間にしわを寄せる。
マワスの「正体」はとある武器製造メーカーの特注品であった。もちろん非合法な「商品」であったのでその製造と管理には企業側も細心の注意を払っていた。それにほころびを生んだのは従業員たちに芽生えた罪悪感だ。次々と送られてくる「評価」に耐えきれなくなったらしい。送信されてきたデータはそれほど凄惨きわまるものだったのだ。
何の因果か「商品」の製造方法はハントゥ・トゥラング・マワスが発生する過程によく似ていた。
素体となるのはラ・ギアスにおけるオランウータンと言って差し支えのない類人猿で、サイズは地上のオランウータンより一回り大きく知能についても同種の中では高い。常に集団で行動し群れはだいたい四匹から五匹で構成されていた。
製造方法は非常にシンプルで呪術の刻印を脳に焼き付けそのまま生き埋めにするのだ。理不尽な暴力と悪意に対する怒りと憎悪。窒息する恐怖と絶望。その一切を指定されたターゲットへの殺戮衝動に転化するのである。やがて純化された呪詛はマワスの皮膚を肉を臓腑を焼き最終的にほぼ白骨化した「完成品」へと至る。マワスはオーダーメイドの死霊兵器であった。
「何だそれ。冗談じゃねえぞ⁉︎」
「そうね。冗談じゃないのよ」
マワスの「製造工場」が軍によって摘発されたのは二週間前。そのさいまだ「仕掛品」であった十数体のマワスが脱走してしまったのだ。
「仕掛品」といっても脱走したマワスは製造工程をほぼ終えておりあとは生き埋めにするだけだった。問えば作業の手間を省くために工程を終えたマワスは自動的に穴を掘って自ら生き埋めになるというではないか。「仕掛品」の「完成」を止める手立てはなかった。
「……脱走した先は?」
「さっぱりよ。表向きの工場がミネラルウォーターを製造してる都合で山の麓にあったの。隠れる場所も逃走経路もあり過ぎて見当がつかないのよ」
突きつけられた現実は絶望的だった。それはつまり人間だけを狙って殺戮してくる死霊兵器が野放しになっているということだ。出会った瞬間が人生の最期になるだろう。
「もうほとんどバイオハザードじゃねえかよ、それ」
「呪詛に感染力がないのがまだ救いね」
「感染してもしなくても結局ぶち殺されるだろうが!」
これではうかつに出歩くこともできない。
「つかよ、何でまだニュースになってねえんだ?」
「摘発した企業の規模が大きすぎて下手に扱えないのよ。何よりマワスの凶暴性があれでしょう? 安易に公表してパニックになるのを警戒してるのよ」
「明確に人間を狙ってくるんだぞ。とにかく民間人の安全と警備の強化が最優先だろうが!」
だが、マワスが今どこにいるわからない以上、警備にしろ避難しろ限界がある。後手後手だ。
「相手がデモンゴーレムサイズならあたしたちの出番もあったけど」
類人猿サイズの死霊兵器となると魔装機神隊に出番はない。それは軍や民間軍事会社などが対応すべきものだ。そもそもマサキたち魔装機神隊の中で正規の訓練を受けた軍人はほとんどいない。中途半端な経験者が手を出していい案件ではなかった。
吉報が届いたのはそれから半日ほどしてからだった。脱走したマワスの約半数が軍によって無事「処分」されたのである。ひとまずマサキは胸をなで下ろした。隣でセニアからの報告に耳を傾けていたシュウもだ。まだ一掃できたわけではないが脅威が減ったことには違いない。
「とはいえ、まだ半分近く残ってるんだよなあ」
しかも連中は集団で襲ってくるのだ。防御魔術が使える人間ならまだ逃げる手立てもあるだろうが、果たして死霊兵器の襲撃を防げるだけの対物防御壁を展開できる一般市民がどれだけいるだろう。
「先手を打とうにも探し出す方法がないんじゃ手の打ちようがねえ」
「嗜好が明確なら状況次第で囮も使えるでしょうが、相手はオーダーメイドの死霊兵器ですからね」
そもそも「仕掛品」の彼らはターゲットを襲撃するために必要な【調教】を終えていないのだ。存在しないものを用意するなどできるはずもない。
「手詰まりかよ」
本来であれば昨日の時点で王都に帰っているはずだった。それに待ったをかけたのはセニアだ。シュウのネットワークにも当然引っかかっていたが今現在マサキが滞在しているシュウのセーフハウス近くでマワスらしきものの目撃情報が入ったのだ。それも夜間ではなく日中にである。
「多分、ストレスが溜まってきてるのよ」
セニアは頭を抱えていた。
マワスはオーダーメイドの死霊兵器だ。彼らは指定されたターゲットを殺戮するよう【調教】されている。しかし、脱走したマワスたちには殺戮衝動はあってもそれを発揮するターゲットがいない。彼らは今自らの存在意義を失いつつある。それは相当なストレスだろう。存在しない殺戮対象を求めてマワスたちはさらなる暴走を始めたのだ。
「マワスたちを一掃するのであれば彼らに適当なターゲットを与えるのが一番でしょうね。そうすればストレスからの解放を求める彼らは自然と集まってくる。あとはそこを叩けばいい」
「問題はどうやってその適当なターゲットを用意するかって話だろ。どっちにしろあいつらに接触しないことには必要な情報も得られやしねえ。散歩先に出てくれりゃあ話も進むけどよ」
「マサキさん、それフラグって言うんですよ。一級フラグ建築士がそんな不吉な台詞を安易に口にしないでくださいよ」
迷惑です。猛然と食ってかかってきたのはシュウの肩で羽を休めていたチカだ。世の中、悪い予感ほどよく当たるのである。
「誰が一級フラグ建築士だ。ふざけたこと言ってんじゃねえ。だいたい、そんな都合よく話が進むわけねえだろ」
実際、今手詰まりの状況にあるのだ。しかし、チカはジト目を崩さない。
「そんな都合良く話が進むから『幸運』持ちは面倒くさいんですよ。嘘から出たまことなんてほんと迷惑なんでやめてくださいね!」
もはやトラブルの発生を前提とした抗議の先取りである。
「へーへー、気をつけりゃあいんだろ、気をつけりゃあよ!」
あからさまに機嫌を悪くしたマサキはわかりやすく口をへの字に曲げてみせる。
「状況はこっちでもチェックをつづけるから、あんたたちは少し気晴らしにでも行ってきなさいよ」
「そうですね。このさいですから昼食は近くのショッピングモールで摂りましょう。屋外はともかくさすがに屋内にまで出没はしないでしょうから」
「ご主人様、だからそれフラグ!」
「なら、さっさと腹をくくってしまいなさい」
にべもない主人にチカは小さい頭で天井を仰ぐ。
「くーるー。きっとくるー。呼んでないけどきっとくーるぅ——っ‼」
もうやけくそであった。
