アクア・トファーナ

短編 List-2
短編 List-2

 ジュリア・トファーナ。約二〇〇年前ラングランに実在した薬剤師。彼女は自ら調合した毒薬アクア・トファーナを用い一〇年間で一五〇人以上の人間を毒殺したが最後にはその悪行を司法に暴かれ処刑された。彼女はフリーの暗殺者であった。
 彼女の主なクライアントは権力闘争が著しかった当時の貴族階級であったが彼女が自らの「功績」を誇ることはただの一度もなかった。もとより胸を張って誇れる大量殺人など世にはない。何より彼女はおのれがただの凡才であることを理解していた。自分は「本物のジュリア・トファーナ」の足下にも及ばない、と。
 ジュリア・トファーナ。一七世紀の地上イタリアに実在した薬剤師。一六二〇年にシチリア島パレルモで生まれ娼婦であり薬剤師であった母、テオファニア・ディ・アダモの技術を受け継いで調合した毒薬アクア・トファーナを用い、一八年間で実に六〇〇人以上の人間を毒殺した世紀の毒殺者であった。
「ろっ⁉︎」
 声が裏返る。一〇年間で一五〇人以上の人間を毒殺した事実だけでも信じ難いというのにその六倍以上を毒殺した人間が地上に実在したというのだ。もはや愕然とする他なかった。
「ゲートの技術が確立されて以降、ラ・ギアスから地上への調査活動は不定期ながら今も継続されています。ジュリア・トファーナとアクア・トファーナに関する情報はその中で伝わったものでしょう」
 毒殺を生業とする暗殺者たちにとって「毒殺者ジュリア・トファーナ」とその傑作であるアクア・トファーナに次ぐことは一つの到達点であると同時に得難いトロフィーとなっていたのだった。
「はっ、人殺しに名誉もクソもあるかよ。胸くそ悪い。こんなふざけたもんに大金払う連中の気が知れねえぜっ‼」
 マサキの機嫌は最悪だった。たまたま顔を出したら問答無用でオークションに連れ出されたのだ。何かしらの厄介事に巻き込まれるのではと身構えたが博学な男をして興味深いと言わしめた品につい好奇心が動いてしまった。その結果がこの有り様だ。マサキは今オークション会場のVIP席でまるで借りてきた猫のようにおとなしく座っていた。隣で空間モニターのリストをチェックしているのは言うまでもなくシュウである。
 アクア・トファーナ。世紀の毒殺者ジュリア・トファーナが調合し、六〇〇人以上の人間を死に至らしめた無味無臭の毒薬。シュウが口にした興味深いものこそその販売に使われた化粧瓶であった。
「そもそも本物なのかよ、それ」
「出品前に商品の検証は済んでいます。少なくとも化粧瓶自体は一七世紀のイタリアで販売されていたもので間違いありません。当時販売されていたアクア・トファーナ同様、女性の守護聖人である聖ニコラスのラベルもありましたからね。微量ですが瓶の内側から毒物も検出されています」
「マジか……。でも、毒薬の入った瓶とか残ってるもんなのか? だって【証拠品】だろ?」
「もともと化粧水を入れて販売していた瓶にアクア・トファーナを混ぜていたわけですから購入者が自白でもしないかぎりまずわかりませんよ。物が物ですからね。秘蔵されそのまま死蔵されたものもあるでしょう」
 何せ一八年間にわたって販売されつづけた代物だ。
「それにしても、まさか傷もなくラベルも含めてほぼ完全な状態で残っているものがあるとは思いませんでした」
「何だよ。お前もこんなもんが欲しいのかよ」
「いいえ。興味はありますが大枚をはたくほどの価値はありませんよ」
「じゃあ何でおれを連れてきたんだよ。この瓶が目当てみたいなこと言ってたじゃねえか」
「そうですね。当たらずといえども遠からず。私の興味を引いたのは、マサキ。アクア・トファーナそのものではなくアクア・トファーナに対するあなたの感想ですよ」
「は?」
 今何と言ったのだこの七面倒くさい男は。
「こんな悪趣味なもんに対する感想だあ? ふざけんてのか、てめぇっ!」
「ふざけてはいませんよ。そもそもどうしてこのアクア・トファーナが調合され一八年間にわたって販売されつづけたか。その背景をあなたは知っていますか?」
「知るわけねえだろっ‼」
 眉を吊り上げて吠える。防音措置を施されたブースでなければ一発で身元を特定されていただろう。
「抑圧からの解放ですよ」
 紫水晶の双眸は明らかな嫌悪と蔑みで凍え切っていた。
「……抑圧からの、解放?」
 思わずオウム返しをしていた。
 すべての始まりはジュリア・トファーナの母親であるテオファニア・ディ・アダモの処刑であった。夫による暴力に耐えられなくなったテオファニアは薬剤師としての知識を活かし夫を毒殺していたのである。殺人罪で告発されたテオファニアは拷問を受けたのちに街中を引き回され一六三三年七月一二日に公開処刑された。
「暴、力って……」
「現在で言うところのDV。ドメスティックバイオレンスですね」
 一六三〇年代のイタリアでは多くの女性が男性の所有物も同然に扱われていた。
 夫による妻への支配は社会的にも容認され、家庭内暴力や性的虐待に対する罰則や機関もないに等しくそれは貴族階級の女性ですら例外ではなかった。個人の尊厳などなかったのである。
 当時の女性に選択できた「未来」は五つ。
 人間として扱われることを夫に願う。
 性労働。
 未亡人。
 物乞い。
 修道院に入る、このいずれかしかなかったのだ。
「な……ん、だよ……、それっ⁉︎」
「一つ言い忘れていましたがアクア・トファーナによる被害者に女性はいません。少なくとも記録に残るかぎり被害者はすべて男性です」
「……まさか!」
 被害者男性が「何者」であるかは問うだけ無意味であろう。殺意の対象は虐げる者。すなわちその時代に存在した抑圧者。
 世紀の毒殺者ジュリア・トファーナは同時に時代に対する復讐者であり反逆者でもあったのだ。そして、アクア・トファーナこそジュリアが研ぎ上げた毒牙であった。
「当時の女性たちにとって【未亡人】という肩書きは幸福の象徴に等しかったのでしょう。アクア・トファーナは【未亡人】に至るための唯一確実な切符として人気を博していたようです」
 それだけではない。アクア・トファーナは虐げられた女性たちに切望され実に一八年間にわたって販売されつづけたのだ。その事実は当時の女性たちが如何に過酷な境遇にあったかを如実に物語っている。彼女たちにとって毒殺者ジュリア・トファーナは単なる大量殺人者ではなく信奉に値する救世主であったのだ。
「でも、よ……。最後には捕まっちまったんだろ?」
「ええ。自白したのは良心の呵責に耐えられなかった年若い新妻です」
 結果、ジュリアは拷問の末に一八年間にわたる悪逆を自白した。彼女の最期については諸説あるが有力なものとしては一六五九年七月、娘ジローラマと三人の仲間とともにローマのカンポ・デ・フィオーリ広場で処刑されたというものだ。
「当時の社会秩序は女性にとって理不尽で暴虐なものでした。アクア・トファーナはその現実に対して投じられた叛逆の一滴。もちろんそこに他者の犠牲を強いた時点で彼女の行為は決して肯定されるべきではありません。それでも、当時、彼女たちに残された選択肢は限られていた。もう一度聞きましょう。マサキ、あなたはどう思いましたか?」
「どう、思うって……、そんなの!」
 女性たちに暴虐を強いた人間たちとそれを容認した時代に憤ればいいのか。あるいは自ら手を汚さなければ人であることすら叶わなかった彼女たちの境遇に涙すればいいのか。
 何と答えれば良い。目の前の七面倒くさい男は自分に一体何を望んでいるのだ。
 ふと空間モニターのリストが目に留まる。アクア・トファーナの入札が始まったのだ。この化粧瓶を求める人間たちはこの化粧瓶の——彼女たちの歴史をどこまで理解しているのだろう。
「なぁ……。それ、高いのか?」
 自然と言葉が口を衝いて出た。
「アクア・トファーナのことですか?」
「他に何があんだよ」
 答えなくてはいけない。でも、言葉がみつからない。そのために整理しなくてはならない感情もぐちゃぐちゃだ。けれどそれよりも今は、今は。
「金は払う」
「マサキ?」
「あとでちゃんと、払う。だから……」
「いいでしょう」
 直後、落札を告げる音声がブース内に響き渡る。
「へ……、え、あぁっ⁉︎」
「手数料を加えた代金については後日こちらから請求書を送ります。期限内の手続きを忘れないように」
 文字通りあっという間だった。口をあんぐりと開けて絶句するマサキにシュウは実に満足げだ。
「では、あらためてあなたの答えを聞きましょうか」
 
 きれいに洗い直した化粧瓶をサイバスターのコクピットに放り込み向かった先は地上——シチリア島パレルモの郊外にある墓地の一つだった。
「もうみんな死んじまったんだろ。だったらこいつだってもう仕舞いでいいじゃねえか」
 大量殺人者として処刑された人間に墓などあろうはずもない。だから、降り立った場所から一番近い墓地の片隅に瓶を埋めた。
 アクア・トファーナ——あの化粧瓶は抑圧と理不尽からの解放を求めつづけた女性たちの希望であり苦難の象徴でありそこへ至る一滴の殺意だった。
「死んだら死ぬんだよ。もう生きちゃあいねえ。だから、そこで仕舞いだ。死んだら弔う。弔いが終われば墓に入る」
 憤りも憐れみもあった。けれどそれに勝ったのが恥と悔しさだった。
 ただの化粧瓶だと思っていた。けれど、その実体は一つの時代を収めた「棺」だった。自分たちは墓を暴き「棺」を引きずり出して好き勝手に値札を貼ろうとしていたのだ。我が身の無知と所業に恥じ入る以外、何ができる。
「これがあなたの答えですか?」
「……わかんねえよ。ただ、あのままにはできねえと思った」
 時は移ろい誰も彼もが皆死んでしまった。そんな中でこの化粧瓶は時間から取り残されてしまっていたのだ。なら、誰かが弔ってやらなければ。
「物騒なもん背負わされて長い間好き勝手に言われてよ。何もかもが終わったと思ったら今度は知らねえ世界に引きずり出されて値札貼られて、挙げ句の果ては見世物だ。ふざけてやがる」
 悔しい。正直、なにがどう悔しいのか自分でもよくわからない。ただただ悔しくて悔しくてたまらない。
「日頃から訓練しておかないからいざという時、言語化に戸惑うのですよ」
「うるせぇっ‼」
 がなるマサキの目許はわずかに赤く腫れている。我慢できなかったのだろう。
「まあ、回答としては及第点ですね」
 ただ憤るだけではいつかそれは狂気に変わる。哀れみつづけるだけではやがて憐憫に凍りついて動けなくなる。けれどマサキはただ悔しいと言った。憤りも憐憫も飲み干して。そうして悔しいからこそ背負ったもの背負いきれなかった何もかもを引きずって、前に進むのだ。たとえそれが新たな苦難への標となっても。
「もとよりラ・ギアスを守護する魔装機神操者。そのくらいの気概がなければ困ります」
 とはいえまさかマサキがアクア・トファーナを希望するとはシュウでさえ予想していなかった。
 空になった数百年前の化粧瓶。おそらくマサキにはそれが一つの時代が後世に残した「形見」にでも見えたのだろう。なるほど。それが誰の物であれ大事な「形見」を見世物になどされては腹が立つのが道理というもの。
「今に始まった話ではありませんが、あなたの善性は少々考えものですね」
「ええ、でもマサキさんに悪人とかそれこそ無理ゲーですよ!」
 どこに隠れていたのか、ひょっこり顔を出したかしましい使い魔は大きく羽を広げて主張する。
「それもそうですね。そろそろいい時間です。マサキ、帰りますよ」
「………れ」
「マサキ?」
「飯、奢れ」
 これでもかと口をへの字に曲げて目いっぱいねめつけてくる。強引に連れ出した手前ある程度機嫌を損ねるだろうとは覚悟していたが今回は意外にも食事で誤魔化されてくれるらしい。
「わかりました。希望を聞きましょう」
「あと土産な」
 そうして共に踏み出す。振り返りはしなかった。

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