タレクア。海棲哺乳類で背面は黒く腹面は白色。両目の上方にはアイシャドウを連想させる白い模様がありその外見は地上のシャチそのものであった。
J35はいくつかあるタレクアの群れの中でサザンレジデントと呼ばれる群れに属するメスで、「彼女」の取ったある行動は世界の注目を大いに集めた。
「死んだ子どもの亡骸を連れて一六〇〇キロ泳いだ、ねえ」
またずいぶんと愛情深い母親もいたものだ。しかもこの一件から数カ月後。新たに産み落とした愛し子をまたも一瞬で失った「彼女」は再び我が子の亡骸に添って冷たい海を泳ぎつづけることとなる。
「同様の行為は他のタレクアでも認められています。さほどめずらしいものではありませんよ」
ただ、J35が突出して異様というだけだ。
「……いるなら言えよ。驚くだろ」
「ここは私の寝室なのですから別に不思議ではないでしょう?」
特別することもなく朝からベッドに転がっていたマサキはたいそう機嫌が悪かった。何せ腰が痛くてまともに立ち上がれないのだ。おかげで着替えもままならない。元凶は涼しげな顔でマサキを見下ろしている男。
「いつか絶対ぶっ飛ばす」
「その前にあなたが捕まると思いますよ」
返り討ちにあうのがオチだと言いたいらしい。いっそ清々しいほどの高慢。見目が良い分、様になるのが腹立たしいやら悔しいやら。こうなったら意地でもぶっ飛ばそう。マサキは心に誓った。
それはそれとしていい加減、素肌にシーツ一枚は寒い。
「貸せ」
マサキは目の前の男——シュウの外套を引っぺがしてシーツの上にかぶる。不格好だが恥と外聞はこのさい場外へ蹴飛ばしてしまおう。地上地底を問わず早朝は冷えるのだ。
「何か思うことでもありましたか?」
ベッドの端に放られていたタブレットにはある学術誌で発表された「彼女」——J35に関するレポートが表示されていた。
「お前が……、それを聞くのかよ」
生後、間もなくして死んでしまった我が子の亡骸を一七日間にわたって運び、一六〇〇キロ以上を泳ぎつづけた母親。それほどまでに愛情深い生き物が世にどれだけいることだろう。
「特別仲が悪いわけでもなかったけど特別仲が良いわけでもなかったって……。思い出しただけだ」
平均的な家族だったと思う。常に家を満たしていた当たり障りのない空気。きっと薄氷の上に成り立っていただろう親子の会話。見えない歪。けれど不満はなかった。少なくとも両親は悪人ではなくどこにでもいる普通の人間だった。それだけで十分だったのだと今なら言える。
「薄情かもしれねえ……。何となくそう思ったんだよ」
両親を失ってすぐラ・ギアスに召喚された。幸いにも新しい保護者は誰もが認める人格者で世話焼きの妹もできた。
理不尽に奪われた命を忘れたわけではない。ただ、気づいたのだ。あの日まで続いていた十数年間を容易に塗り替えてしまった今の日々とその事実に。どうして思い至らなかったのだろう。いまさらのように疑問の棘が胸を刺す。
「あなたの場合は事情が特殊でしょう。仕方がありません」
召喚されて以降、常に生死の境を綱渡りする日々だった。そして、魔装機神操者となった今この背が負うのはラ・ギアスの平和と未来でありそこへ至る轍だ。都度、立ち止まって過去を振り返っている余裕などあろうはずもない。
「人のこと言えた義理かよ。お前だって十分特殊じゃねえか……」
大公家に望まれるも地上人であるというただ一点から陰湿な仕打ちを受けつづけついに病み果てた大公妃は地上への帰還を願い、あろうことか我が子を邪神の贄に捧げた。
「彼女にとってはそれが最後のよすがだった。それだけの話ですよ」
裏切られた衝撃をただただ嘆くには聡過ぎる子どもだった。怒りはあった恨めしくも思った。憎しみも。けれどそれはほどなくして憐れみに凍りついた。大公妃——母が病んでいくその様を誰よりそばで見ていたのはシュウなのだ。
だからこそ、お互い心のどこかで信じられない気持ちがあったのかもしれない。
奪われた末、いつの間にかにじんでしまった家族の記憶。一瞬で失われ凍りついてしまった家族の記憶。その裏側には死んでしまった我が子の亡骸を連れ、一六〇〇キロ以上を泳ぎつづけた家族が今も実在している。「彼女」たちと自分たちは一体何が違ったのだろう。
「うらやましいのですか?」
外套を頭からかぶったマサキの表情は窺えない。
「うらやましがる話じゃねえだろ」
ただほんの少しだけ考えてしまったのだ。両親が「彼女」ほど愛情深い人間であったなら、「彼女」たちほど互いを思い合える家族であったなら「あの日」の結末はきっと変わっていたに違いない。
「けれどその結果、私はあなたを失ったでしょうね」
仮にそうであったなら仲睦まじい家族は「あの日」によって永遠に失われていただろう。
「お前、それは卑怯だぞ」
現状を悔いてはいない。ただ、「かもしれない」未来を少しだけ、ほんの少しだけ見てみたいと思った。それだけなのだ。
「心配せずともどこにも行かせませんから安心なさい」
そう、「かもしれない」未来などへは決して。
「いや、別に心配しなくても行かねえからな。行こうと思って行けるもんじゃねえし。あとそこは安心するところじゃねえだろ。むしろ行動の自由を保障しろ、行動の自由を。……って何当たり前のように人を抱え上げようとしてんだ、てめぇっ!」
「そうは言ってもいい加減、着替えたいでしょう?」
その手助けだと言いたいらしい。元凶が殊勝なことをのたまうではないか。マサキは半目になってうなる。
「誰のせいでこんな目に遭ったと思ってんだっ⁉︎」
「私のせいですね。ですから、きちんと責任は取りますよ」
「取らんでいいわ! つか、さっさと下ろせっ‼」
腰は痛いが徹底抗戦である。毎度毎度流されてなるものか。
「お前は一度でいいから自重しろ!」
「あなたが目の前にいる以上、無理ですね」
「即答っ⁉︎」
文字通り秒とたたずに撃墜されてしまった。手強い。ならば奥の手だ。
「今すぐ下ろさねえなら向こう一カ月、何があっても絶対こっちには来ないからな。口もきかねえぞ!」
この世の果てで勝敗を決するゴングが鳴り響いた瞬間であった。
「さすがにそれはあんまりだと思うのですが……」
勝利はしたが今度はすねられた。図体ばかり大きな子どもは一度機嫌を損ねるとあやすのも一苦労だ。ほんとうに面倒くさい。
「とりあえず、まだ眠いし腰も痛え。だからもう少し寝る。着替えるのは次に目が覚めてからだ。……手伝うならそのときにしろ」
これが精一杯の譲歩だ。決して流されたわけではない。そう断じて、だ。
「怒りませんか?」
「おれがいいって言ってるだろ。ただし、お前は手伝うだけだからな。それ以上は絶対何もすんな!」
「信用がありませんね」
「誰のせいでこうなったと思ってやがる。自覚しろ、この強欲大魔神っ‼」
しかし、後にマサキは自らの発言を心の底から悔いることになる。
「大魔神とまで言われてしまいましたし、仕方がありませんね。概して魔神は強欲で横暴なものですから」
結果、ぎっくり腰こそ免れたもののそれ以外は大惨事となった。本当にもういろいろ大惨事だったのだ。
ゆえにタブレットとハードカバー数冊、そして逃げ遅れたローシェンが放物線を描いて宙を舞ったのは当然の帰結であったといえよう。
「てめぇは今すぐ自重の二文字を辞書で引いてこいっ!」
最終的に顔面を直撃したのがハードカバーではなく自らの使い魔であったのがせめてもの温情であった。
なお、大惨事に対する慰謝料とそれによる魔装機神隊の業務遅延についての損害賠償請請求は、一〇:〇を飛び越え一〇〇:〇で辣腕のセニア・グラニア・ビルセイア大勝利で終わったそうな。
J35
短編 List-2