神聖ラングラン王国の首都である王都ラングランは国内最大の規模を誇る大都市だ。ナリア・ハリファ——ミセス・ハリファの「城」である「ハリファ食料雑貨品店」はその中央通りから数区画ほど離れたナルニア商店街の一角にあった。
商店街全体の売上では常に「中央通り商店街」の後塵を拝してきたナルニア商店街であったが、ある一件を境に王都でもっとも有名な商店街として絶対的な地位を獲得するに至ったのである。
「おばちゃん、前に言ってたやつ入荷したってほんとか!」
「ああ、いらっしゃい。マサキちゃん! 待たせて悪かったね。すぐ用意するよ」
マサキ・アンドー。ラングラン王宮武術指南役であった剣皇ゼオルート・ザン・ゼノサキスを養父に持ち、ラングランが誇る風の魔装機神サイバスター操者にして剣神ランドール・ザン・ゼノサキスの聖号を賜与された救国の英雄。彼こそが「ハリファ食料雑貨品店」のそしてナルニア商店街最大の「お得意様」であった。
「はい。これが前に言ってたフュージョンのブレンドだよ」
カウンターに置かれたのは紫色にツヤ光る円筒状の茶缶。二四年前ライオット州に一号店をオープンさせた紅茶専門店フュージョン。新興企業ながらそのファンは国内外に多く特にブレンドで使う緑茶の輸入元であるエリアル王国での人気は飛び抜けていた。
「フュージョンの一番人気はアップルティーなんだよ。だから、アップルティーを取り扱っている店は多いんだけどそれ以外は専門店でもないかぎり取り扱いがあまりなくてね」
「でも、おばちゃんは知ってたんだよな?」
「フュージョンの紅茶はどれも安くないし、ブレンドはその中でも頭ひとつ抜けてたからね。どんなもんかと気になったのさ」
試しに飲んでごらんと差し出された紙コップ。不思議な香りだった。甘くはあったがショコラやフルーツのように強く存在を主張するわけでもなくむしろ気配は薄い。けれど口に含んだ瞬間、大輪が花開くかのごとく色鮮やかな香りが舌先に舞うのだ。あまりのギャップに目が白黒してしまう。一体何を混ぜればこんな香りができあがるのだろう。
「これ、ラベンダー入ってるんだよな?」
「そうだね。ブレンドの中身は緑茶、バニラビーンズ、ラベンダー、オレンジだよ」
「ラベンダーに緑茶も入れてんのかっ⁉︎」
バニラはまだわかる。オレンジも。だが、まさかの緑茶である。マサキは絶句した。予想外にもほどがある。
「緑茶の渋みはきれいになくなってるから心配はいらないよ。ほら、もう一口飲んでごらん」
勧められるままもう一口。確かに緑茶の渋みはなくよく香りが溶けたまろみのある味であったが、これは紅茶というよりもはや香水と言っても差し支えないのではなかろうか。
「……何だこれ?」
思わず首を傾げるマサキにミセス・ハリファは快活に笑う。
「面白い味だろう? 気に入ったならまた買っておくれ。それで、ラッピングは前に言っていた通りでいいのかい?」
そう言って紫色の茶缶に手早く巻かれたのはインディゴのリボンだ。
「ああ、これでいい。ありがとよ!」
それから数分後。今度は妹に頼まれた製菓用の材料を山と抱えてカウンターに戻ってきたマサキにミセス・ハリファは再び満面の笑みを浮かべたのだった。
神官職を連想させる白い外套に烏羽色の黒髪。右目には銀製のモノクル。薄く削られたレンズの向こう側では深く冷たい紫水晶が世界の一切を拒絶しながらきらいめいている。
年の頃は二十代半ばだろうか。見慣れたお得意様の青年よりずっと背の高い「ご新規様」は人目につきにくい棚の上段を一つ一つ吟味するかのように眺めていた。棚の一番上を占拠しているのは店で扱う商品の中でも特に高額なものばかりだ。
短くない逡巡の後に青年が手を伸ばしたのは「お得意様」のお気に入りでありミセス・ハリファ一押しの紅茶だった。
「ああ、それはマサキちゃんの一等お気に入りなんだよ」
つい口を衝いて出てしまった。青年がミセス・ハリファを振り返る。ほんの一瞬、目許が和らいで見えたのは気のせいだろうか。
「マサキというのはマサキ・アンドーのことですか?」
「そうだよ。うちの店一番のお得意様さ。何たってラングランが誇る英雄様だからね!」
「英雄ですか。彼は……、地上人だったと思いますが?」
「なんだい、あんた。マサキちゃんに何か文句でもあるのかい?」
声の端にわずかな悪意を見て取ったミセス・ハリファは眉を吊り上げる。
王宮武術指南役まで務めた剣皇ゼオルートが何を血迷ったのか地上人の少年を養子にした。その一報には家族全員が仰天したものだ。それは商店街全体もほぼ同様の反応であった。ミセス・ハリファたちにとって地上人とは自らを律する能力に欠けた野蛮人というイメージしかなかったのである。しかし、百聞は一見にしかず。ほどなくしてミセス・ハリファはおのれの無知と偏見を恥じることとなる。
「ねえ、ハリファおばさん聞いて。お父さんったらまたピーマン残したのよ。しかも、お兄ちゃんにあげようとしたの。もう、信じらんない!」
「あれだけ偏食極めてんのに何で一度も体調崩してねえのか、いまだに謎だわ。あのおっさん、腹の中身一体どうなってんだよ」
家族となってまだ日は浅く血も繋がっていないというのにそれはそれは仲の良い「兄妹」だった。
「聞いてください、ハリファさん。最近、子どもたちがひどいんですよ。私の好き嫌いを直すためだといって二人がかりで食べさせようとしてくるんです。昨日なんてパセリを食べさせられたんですよ?」
翌日、「懐柔」用のクッキーを買い求めに来た「父親」の言動には呆れて物も言えなかったが。
がさつで喧嘩っ早く負けん気の強い激情家。その言葉の表面だけを切り取って判ずるなら少年は間違いなく「忌むべき野蛮な隣人」であった。けれど実体は違った。確かに少年はがさつで喧嘩っ早く負けん気の強い激情家であったがその性根は真っ直ぐで何より善良であった。そう、少年は弱きを助け強きをくじくことができる人間だったのだ。それはとても希有なことであった。
地上人と違いラ・ギアス人は理知的で精神的に成熟した人類である。それは一つの自負であった。ゆえにミセス・ハリファは目の前の事実を受け入れねばならなかった。地上人の少年——マサキ・アンドーはミセス・ハリファにとって「良き隣人」に能う人間であったのだ。
「確かにマサキちゃんは地上人だよ。でも、それだけさね。あの子は良い子だよ。性根だって真っ直ぐさ。悪党を相手に悪党は悪党だって正面切って言える度胸もある。腕っ節だって強い。あたしらが助けてほしいって手を伸ばせばちゃんと受け止めてくれるよ。そりゃあね、全部が全部は無理だよ。人間だからね。それでも、一生懸命あたしらの手を取ろうとしてくれるんだ。上からじゃなく正面からね。十分じゃないか。あの子は立派な英雄様だよ。何が不満だい!」
返答次第ではとことん説教してやろう。仕事も忘れてミセス・ハリファは腕組みする。迎撃準備は万端だ。
「……失礼。口が過ぎたようですね」
ミセス・ハリファの熱意が通じたのかややあって「ご新規様」は素直に自らの非を認めた。拍子抜けである。だが、これでお得意様への偏見が一つ減ったと思えば儲けは十分だ。
「あなた方にとって彼はとても身近な存在なのですね」
一瞬、モノクルの向こう側に安堵と親愛の二色が映る。
「ああ、そうさ。何たってお隣さん——お隣さん家の英雄様だからね!」
それはそれは誇らしげにミセス・ハリファは笑う。そこにあるのは純粋な好意であり確かな信頼であった。
「では、これを」
そうして棚を眺めていた「ご新規様」が最終的にカウンターへ置いたのはやはり英雄様お気に入りの一品。
「おや、そんな雰囲気はしてたけどお兄さんも紅茶を飲むんだね。だったらちょうどいい」
差し出されたのは小さな紙コップ。そして香り立つのは。
「これは……、フュージョンのブレンドですか?」
独特の香りと味だ。一度飲んだら忘れようがない。
「ああ、お兄さんは知ってたんだね。マサキちゃんに頼まれて仕入れたんだけど」
「彼がこれを?」
「何でも強情な知り合いがいるらしくてねえ。いくら言っても徹夜をやめないから最初はラベンダーのハーブティーでも顔面に叩きつけてやるって息巻いてたのさ。でも」
「でも?」
「絶対にからかわれるから、できればばれないものにしたいって」
その結果がこのフュージョンのブレンドらしい。なるほど。だが、カフェインを多く含む紅茶はそもそも徹夜対策には不向きであることを彼は忘れているのだろうか。
「素直に心配してるって言えばからかわれないと思うんだけど、よっぽど強情でひねくれた性格の相手なんだろうねえ。まあ、あたしらから見たらマサキちゃんだって十分、強情なんだけど」
「ちなみに彼が購入したのはこのブレンドだけですか?」
「あとはプレシアちゃんに頼まれた製菓用の材料だけだよ。来月に備えて新作作りに励むんだとさ。あそこは本当に仲のいい『兄妹』だからねえ。今年も一緒に作るみたいだよ」
「ああ、バレンタインですか」
そう、今は一月。来月にはバレンタインデーがあるのだ。
「では、こちらも早めに準備を終えておきましょう。そろそろできあがっているでしょうしね」
店を出てすぐ、堂々と【認識阻害の魔術】を解いた「ご新規様」——シュウは足早に愛機の元へと向かう。ゲートを開くためであった。
