フィルロ

短編 List-3
短編 List-3

 ソファーの向こう側には買ったばかりのベビーベッドがある。そのすぐ下にはベビー用の手押し車が二台。さらにその奥には山と積まれたベビー用品とベビーフード。
 早ければ明日の夕方には「彼」の両親が迎えに来るというのに馬鹿な買い物をしたものだ。ベビーベッドも折りたたみ式やレンタルを選べば済む話であったのに。
「ご主人様でもテンパることってあるんですねえ」
 あたくしびっくりです。と声高に頭上を飛び回っていたローシェンは、窓のすぐ向こう側にある木の枝にミノムシよろしく紐でぐるぐる巻きにされて吊されている。
 ベビーベッドで安らかな寝息を立てているのは間もなく一歳の誕生日を迎える赤ん坊。名前はフィルロ。昼間ニュースになっていたショッピングモール内での無差別乱射事件に巻き込まれた夫婦の一人息子だった。
 ちょうど気分転換にモールを訪れていたマサキが現場に居合わせたため事態は速やかに収束し、フィルロの両親も入院とはなったがそうそうに退院できるとのことだった。
「ほんの数日とは言え安易に赤子を預かるなど何かあったらどうする気ですか。犬猫とは違うのですよ」
「そんなことは言われなくてもわかってんだよ! でも、離そうとしたらすごい声で泣き出すし、フィルロの母親にも頼まれちまったし……」
 回復術があるとはいえ乱射事件の被害者は多く治療できる人数にも限りがあった。フィルロの両親はひとまず外科的処置を受け回復術による治療は翌日以降の順番となったのだった。
「お願いします。退院する明後日までこの子を守っていただけませんか。いえ、治療が早くすめば明日の夕方にでも迎えに行きますから!」
「いや、いくら何でも無理だって⁉︎ おれ子どもいねえし、赤ん坊の面倒とか見たことねえからっ!」
 負傷した両親を病院に案内する間、フィルロを抱えていたのはマサキだった。それは夫婦——特に母親にとっては驚嘆に値する光景だったらしい。
「この子はひどい人見知りなのです。それが、しかもこんな状態でおとなしくしているなんて……!」
 実際、医務室での治療が始まりマサキが看護師にいったんフィルロを預けようとした瞬間、天井を吹き飛ばす勢いでフィルロは泣きわめいた。至近距離でその直撃を食らったマサキ曰くもはや音波兵器レベルの高音と声量だったそうだ。
「真正面であれ食らったら死霊装兵でもたぶん即死する」
「あなたは赤ん坊の泣き声に何て表現を使うのですか」
 何人かの看護師に代わってもらったがやはりフィルロはマサキから離れるのを嫌がった。というよりも怯えていたのだ。無差別乱射事件の犯人は六人。逮捕されたのは四人で残る二人はいまだ逃走中だったのである。おそらく、大人たちの不安を本能的に感じ取っていたのだろう。
「お願いです。どうかこの子を守ってください。お願いします——ランドール様っ‼」
 医務室の外まで響いたその悲鳴。禁じ手だ。それは母親も十分理解していただろう。
 場所は病院。傷ついた両親と泣き叫ぶ赤子。両親以外で赤子がひっしと抱きついて離れなかったのは誰あろう救国の英雄。一連の目撃者は多く、この状況下でどうして拒絶などできようか。
 退路は断たれた。そうして長い長い沈黙の末、ついにマサキはフィルロを連れて滞在中であったシュウのセーフハウスに戻ってきたのだった。

 マサキがフィルロを連れて帰ってきてからはもう家の中は台風だった。もともと長めの滞在予定だったらしく着替えなどは十分にあったがそれ以外は何もかもが足りなかったのだ。大前提としての知識はもちろん経験も。
 育児関連の記事をまとめて最低限の必需品を買いに出たのはシュウだった。大ざっぱなマサキにはとても任せられないというのが表向きの理由であったがフィルロに力一杯泣かれたのである。文字通り天井を吹き飛ばす勢いで。
「私の認識が甘かったことを謝罪します」
 あれはヴォルクルスの鼓膜にすら風穴を開けられるレベルだ。シュウは認識を改めた。ギャン泣きって怖い。
 しかし、育児経験がゼロなのはシュウにも言えること。ゆえに頼るべきは記憶の中の「信頼できる大人」たち。第三者視点から見てそれは正しい選択肢であったが金銭感覚的にはスリーアウトであった。
「ベビーベッドだけで何で二万クレジットもぶっ飛んでんだよ! あと手押し車一台六千クレジットって何だ⁉︎」
 フィルロを抱いたままであったのでボリュームは非常に控えめであったがマサキの怒りは真っ当であった。
「経験者に相談した結果ですが」
「王族関係者の価値基準でベビー用品一式買ってくるんじゃねえ! ……まあ、お前がテンパってることはよくわかった」
「テンパってなどいませんが?」
「後ろに積んであるベビー用品の山を見ろ、山を。お前これどうする気だよ。もう嫌がらせレベルの物量だぞ! あとその大量の本は何だっ⁉︎」
 マサキは天を仰いだ。ちなみにフィルロはいまだマサキにくっ付いたままだ。何が楽しいのかジャケットのボタンを上機嫌でばしばし叩いている。地味に痛い。
 何はともあれ必要なものは一応そろった、はずだ。
「少しは……、離れて、くれよ?」
 フィルロの目の前に手押し車と使い魔の一羽と二匹を並べてそっと腕から下ろす。
「うぅ!」
「一心不乱に来たんだにゃっ⁉︎」
「一直線にゃ‼」
「ひいぃ、あたくし無関係を主張します!」
 慌てふためく様がお気に召したのかフィルロは右往左往する一羽と二匹めがけて一瞬の躊躇もなく飛びかかる。通常であれば回避できるスピードであったが何せ相手は赤ん坊。回避などすれば怪我をさせてしまう。一羽と二匹は覚悟を決めた。断末魔は見事な三重奏であった。
「……惨い」
「赤ん坊はこの世で一番の暴君らしいですからね」
 ぺしゃんこになった使い魔たちに手を合わせ次は食事の準備である。ドライタイプかウェットタイプかでもめた時間は実に十数分に及んだ。
 次はおもちゃだ。シュウが用意したダンボールに詰め込まれていた知育玩具にはラングラン王室ご愛用のラベルが貼られていた。
「……経験者?」
「安全面も含めてよく設計されていましたから」
 暴君の暴虐は嵐のごとく増すばかりだった。
 上機嫌で積み木を放り投げ始めたかと思えばぺしゃんこになったシロたちの尻尾や羽を噛んだりむしったりと非道の追い打ち。手押し車に掴まればその勢いに任せて部屋の出口に向かって全力突撃。本人は上機嫌だが振り回される側はもう生きた心地がしなかった。
「フィルロっ⁉︎」
 極めつけはゴッ! と音を立てて頭から床に倒れた時だ。火がついたように泣き叫んだかと思えば、
「くぅ」
 と次の瞬間にはもう眠ってしまった。これにはマサキだけでなくシュウも仰天した。やれ病院だ氷嚢だ鎮痛剤だレントゲンだと右往左往。最終的にシュウがマサキとフィルロを連れて病院に駆け込んでみれば。
「ああ、よくあるんです。すごい石頭なんですよ、この子!」
 日常茶飯事なのかにこにことベッドで笑う母親に赤ん坊の驚異を教え込まれただけであった。
 それから夕食まで怒濤の展開は続きに続き、ようやく訪れた午後八時過ぎ。
「九時までには寝てたほうがいいんだっけ?」
「そうらしいですね。寝かしつけには本の読み聞かせがいいと記事にはありますが」
「——おれが読むのか?」
「他に誰が?」
 長い長いとても長い沈黙の末、プライドと羞恥は寝かしつけという大役を前に平伏したのだった。
「そういえばほとんど夜泣きしないって言ってたよな。静かすぎて逆に怖いくらいだって」
「そのようですね。ちょうどまとめておきたいレポートもありますし寝ずの番は私が引き受けますよ。あなたが不調では彼も安心できないでしょう」
「じゃあ、泣いたらすぐに起こせよ?」
 途中まで読み終わった絵本を手にマサキはそのままソファーに寝転がる。緊張が解けて一気に疲労が押し寄せたのだろう。あっという間に寝入ってしまった。
「さて、できればこのまま平穏であってほしいですね」
 けれどその願いが叶ったのは夜明けまでであった。

 翌日。無事、夕方までに退院できた夫妻は山と積まれた「手土産」にマサキが想像したとおり口をあんぐりと開けて絶句していた。無理もない。
 中睦まじく去って行く親子。耳に残るのは高く無邪気な笑い声。
 たかが一晩。されど一晩。
 まさかこの年で思い知るとは思わなかった赤ん坊の驚異と親の苦労とその偉大さよ。
「なあ」
「どうしました」
 親子の背はもう見えない。だからだろうか。
「暇なら墓参り、付いてくるか?」
 不意に口を衝いて出たその言葉。特別仲がいい家族ではなかった。ただ、思い出したのだ。
「そうですね。この機会に挨拶するのもいいでしょう」
「……お前、やっぱついてくんな」
 けれど気づけばきっとこの男は隣にいるのだろう。
「そういや、おれもほんど夜泣きしなかったって言ってたな」
 望むいらえは返らなかった。

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