「どうか憐れみを、せめて……、せめてあなたに」
まるで老婆だ。伸ばされた右腕は枯れ木のごとく痩せ細り骨と皮ばかりで血管が浮き出てしまっている。
「自業自得でしょう」
シュウは冷淡に切り捨てる。
魔術の才もなければ魔力も乏しく、分不相応な呪具に頼って呪詛をまき散らした。その罪科に対する当然の報い。
「あなたの希望を聞き届ける理由はありません」
目の前の「老婆」の「正体」は二十歳を過ぎたばかりの女性であった。しかし、今やその頬はこけて目許はくまで黒くくぼみ、まるで底のない淵に眼球をはめ込んだかのようであった。わずかに開いた口から見える歯列も隙間だらけで歯の何本かは割れてしまっている始末だ。
この惨憺たる有り様を見て誰が女性の真実を看破しよう。シュウの目の前で喘鳴を上げながら床を這うそれはもはや人間ではなく呼吸するミイラであった。
女性が一心不乱に魔力を注ぎ込んだ呪詛の相手はラングラン政府高官と一部の貴族だった。その中には女性の友人知人の両親も含まれていたが女性には何の躊躇もなかった。女性が自らの存在を贄に呪殺した人間は十数人を超えていた。
ヴォルクルス教団の教徒はラ・ギアス全土に存在するがその何割かが貴族階級に属することは意外と知られていない。家名を汚す汚点として秘密裏に処理されることが大半だからだ。
女性——ミランダ・ノーテュクスもまたその例に漏れなかった。
ミランダの悪行が露見したのは六人目の呪殺が叶った直後であった。娘の非道に激怒しまた戦慄した両親はすぐさまミランダをゲートすらない僻地の別荘に幽閉した。使用人は老いさらばえた老夫婦だけ。与えられたのは使用人のそれよりも粗末な食事に粗末な衣服。そして粗末な物置小屋の一室だった。
貴族の令嬢として生まれたときから不足のない生活を送ってきたミランダにとってそれは絶望に値する仕打ちであった。両親はおのれの境遇に悲嘆したミランダが自死することを心の底から望んだのである。
けれどミランダはくじけなかった。また、ミランダを引きずり込んだヴォルクルス教団もミランダの熱意を後押しした。教団にとって唯一の誤算であったのはミランダの殺意の根源を見誤ったことだ。ミランダの殺意は憎悪に根ざしたものもではなかった。また、怒りが巻き起こしものでもなかった。
「どうか憐れみを、せめて……、せめてあなたに!」
狂恋。たやすく理性をねじ伏せ倫理を嘲弄する致死の猛毒。それが殺意の「正体」であった。
「あなたと私の間には何の縁もなかったはずですが?」
嘘だ。予感はあった。だからこそ、こうしてシュウは自ら乗り込むことを選んだのだ。
今、シュウの周りには事切れたヴォルクルス教団の教徒たちで埋め尽くされている。ここはミランダに一連の悪行を吹き込んだ教徒たちのアジトであった。シュウが行使した風の魔術による殺戮はただの一人も標的を逃がさなかったのだ。ミランダがそうであったようにシュウもまた一切の容赦をしなかった。
ミランダの出血はすでに致死量に達していた。即死しなかったのはわずかに手元が狂ったからではない。一つ、尋ねておくべきことがあったからだ。
「その言葉の先を聞きましょう。あなたが求めているのは私でないはずです」
短くない沈黙だった。けれどミランダは意を決して口を開く。どうしても、どうしてもら諦めきれなかったのだ。
「あの方に……、あの方に触れたその手で、どうか!」
日の光がきらめく夏の日。焼きつく群青の夏空よりも鮮やかだった生命の新緑。世界すらかすむほどに圧倒的な存在感。何よりも衝撃だったのは裏表のないその気性、その言霊。閉塞した貴族社会で生きてきたミランダにとってその在り方はもはや奇跡に等しかった。実際、『彼』は尊き精霊王の加護を得た希有な人間であったのだ。
ひと目。そう、たったひと目でミランダの世界は生まれ変わった。代わり映えのしない平和で欺瞞ばかりの億劫な日々が、あの瞬間から天上の楽園となってミランダを祝福したのである。
「だから、『彼』の障害となる人間を呪ったと?」
枯れ果てた「老婆」は満面の笑みを浮かべてうなずく。そこには恥も罪悪感もない。恍惚とさえしている。醜悪だった。
「……なぜ、私だとわかったのですか?」
確認したかったのはこの一点。王都を訪れるさいは必ず【認識阻害の魔術】をかけていたのだ。万能ではないが魔術の才のない者にはまず見破れないはずだった。
「おかしな、こと……、をおっしゃる、のね。どうし、て、わから……ないと思い、ますの?」
あの方は私のすべて。たった一瞬で世界を塗り替えた奇跡の具現。その瞳が誰を見ているのか、その身に誰が触れたのかなど誰の手を借りずとも理解できて当然なのだ。それは狂気の成せる業であった。
「ああ……。だからどうか、どうかその手で。あの方に触れたその手で、どうか!」
けれどシュウは応えなかった。当然のように背を向け、アジトを出る。この世すべてを呪う咆哮を聞き捨てて。
「どうして……! どうしてええぇぇ——っ⁉︎」
連絡を入れてきたのはセニアだった。ここ最近、魔装機神隊の「政敵」である一部の貴族と政府高官が相次いで呪殺されており、そのせいで魔装機神隊にあらぬ嫌疑がかけられている、と。
当たり前だが真っ先に疑われたのはヴォルクルス教団だ。そして、それは正しかった。予想外であったのは実行犯が貴族の令嬢であった点だ。相手が犯罪者なら捕縛することはかんたんだが曲がりなりにも貴族の令嬢である。うかつに手が出せる相手ではなかった。
「あんたどうせ暇でしょ。恩を売らせてあげるからちょっと仕事してきなさいよ」
相変わらず従兄弟づかいの荒いセニアにめずらしく暇を持てあましていたシュウは快く応じた。提示された「謝礼」が満足のいくものであったからだ。中身については問うまでもなかろう。
「触れさせるわけがないでしょう」
吐き捨てる。
指示されるまま恋に狂うままに呪いをまき散らし、多くの人間を死に至らしめた。そこに何の恥も躊躇も罪悪感もなく。そんな人間が伸ばした手にどうして触れられるだろう。他でもない『彼』を抱いた——この手で。
「暇つぶしにもなりませんでしたね」
シュウそうそうに彼女の存在を記憶から消した。
二度と思い出すことはなかった。
