南風が集う場所

長編・シリーズ
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第三話 朔風遠き午後にて

 その白亜の館は父であるカイオン大公が不測の事態に備えシュウと妻であるミサキのために建てたセーフハウスであった。
 館の最奥にある女主人の部屋は小さな庭に通じており庭の中央には大輪を模した花びら型の噴水があった。
 陽の光と花々の芳香に満たされたその部屋を母は「南風が集う場所」と名付けていた。
「私の次にこの部屋の主になるのは誰かしら? ねえ、とても楽しみだわ。シュウ、あなたは誰を連れてくるのかしら」
 母の言葉に応えるようにマサキをこの館に連れてきてからずいぶんと時間がたった。館の主人が住まう別棟の一室は今やマサキの私物で溢れている。
 マサキがこの館を訪れる理由の多くは心身のどちらかに不調を来したときであったが、めずらしくも今日は違った。
「寝る」
 シュウと顔を合わせるなり一方的に言い放つとマサキは「自分の部屋」に入るなりグローブ、ジャケット、ブーツの順に脱ぎ捨て、その勢いのままベッドへ飛び込んだ。
「マサキ?」
「寝る。寝るったら寝る!」
 そうして言葉通りあっという間に寝入ってしまった。
「にゃにか用事があるわけじゃにゃいのよ」
「ただ、どうしてもここで寝るって聞かなかったんだにゃ」
 特別な理由は何もない。ただ、ここに来たかった。ここで眠りたかった。
 ただ、それだけ。
「……それだけの価値をあなたはここに認めてくれたのですね」
 家族と仲間が暮らす日常とは異なるもう一つの日常。マサキはここを「家」だと認めてくれたのだ。
 窓を開ければ陽の光とかぐわしい南風が頬をなでる。噴水の手前、窓から近い場所にあるガーデンセットは先週購入したものだ。リクライニングチェアのクッションはもちろん特注である。後日、金額を知ったマサキから散々叱られたシュウであったがすべて必要経費内なので次回も気前よく散財するつもりだ。
「ご主人様、マサキさん当分起きそうにないですけどどうするんですか?」
「特に何もしませんよ」
 そう何もする必要はない。
 シュウがマサキのために新しく用意したキングサイズのベッドは庭にすぐ出られるよう窓側に寄せてある。さまざまな芳香と一緒に吹き込んでくる南風に揺られながらの昼寝は最高だとよく口にしていたからだ。
「たまっていたレポートでもまとめましょうか」
 この機会に読みかけの論文や小説を片付けるのもいいだろう。 
 窓際には一人用のソファとアンティークのコーヒーテーブルがある。わざわざカブリオールレッグ——【猫足】を探してきたのだと言えばマサキはぽかんとした顔で脱力していた。マサキの使い魔が猫だったから、というのが大枚をはたいた理由であったからだ。
「それにしても」
 オイルと土埃、汗臭さと微かな血の臭いがしない彼。よくよく考えてみると初めてのことではなかろうか。
 振り返れば存外いとけない寝顔がそこにある。いつの間にか寝返りを打っていたようだ。かつて少年であった頃ならまだしも今はもうずいぶんと精悍な若者に成長したはずなのに眠る彼はどうしてこうも幼く見えるのだろう。
「まだ子ども成分が残ってるからじゃないですか?」
「あなたは少し黙っていなさい」
 口を開けば雰囲気を端から端まで壊してくる使い魔に知らず眉間のしわが深くなる。
 それにしてもまるで夢のようだ。背教者として今やラ・ギアス全土に指名手配されている身でありながらいとおしい者の寝顔を傍らに陽の光の下で種々の花々に囲まれている。
「本当に、夢のようですよ」
 いっそ恐ろしくなる。
 何かに肩を引かれるようにもう一度背を振り返る。
 いとけない寝顔に苦悶の色は一片もない。心身を痛めてここを訪れていた頃は苦悶を浮かべてうなされることがしばしあったのだ。
「ここはあなたにとって安らげる場所ですか?」
 その答えを身をもって差し出された気がした。
 あまり長く見つめていたせいかしばらくしてマサキが目を覚ます。寝ぼけ眼はシュウを視界に認めると数度瞬き、それからゆっくりと覚醒する。
「何かめずらしい顔してんな」
「めずらしいですか?」
「うん。なんつーか、迷子みてえ? 泣きそう?」
 何ともストレートな物言いにシュウは苦笑するしかない。まさか迷子呼ばわりされるとは。しかも泣きそうとまで。
「あなたが相手では嘘をつくのも難しいようだ」
 普段であればいくらでもやり込められるはずなのに。
「少しばかり怖くなったのですよ」
 素直に吐露すればマサキは事もなげに言ってのける。
「何で怖がるんだよ。それはお前の正当な報酬だろ」
「報酬ですか?」
「報酬だろ。だってお前、スゲぇ頑張ったじゃねえか。おれにはたくさん仲間がいたけどお前のとこはほぼお前が一人で何とかしてたみてえだしよ」
 邪神に操られた果て、その支配からの解放を求めて自ら死地に赴きおのが死をもって見事本懐を遂げた。邪神の力で蘇生させられたあとは邪神への報復を誓いそれもまたおのれの手で果たして見せた。
「お前、何でもかんでもやり過ぎなんだよ。しかも派手だし。少しは手を抜けっての!」
 けらけらとひとしきり笑うとマサキはあらためて正面からシュウを見据えて言った。
「だから誇れよ。これはお前が勝ち取った正当な報酬だ。お前はよく戦ったよ」
 誰よりも誇らしげにマサキは笑った。
「あなたにそこまで言われるといささか面はゆいですね」
「あははは、お前がそんな柄かよ!」
 笑いながらマサキが両手を伸ばす。当たり前のようにその手を取ればぐい、と思いのほか強い力で引き寄せられる。気づけばシュウはマサキの胸に抱え込まれていた。まるでぬいぐるみ扱いだ。
「でけぇテディベア!」
「私を捕まえてそんなことを言う人間はあなたくらいですよ」
 そもそも誰かに抱き込まれるなどという醜態をシュウ・シラカワがさらすわけがないのだ。
「何でもかんでも難しく考えようとするから、そんなつまんねえこと考えるんだよ。たまにはお前も昼寝しろ!」
 ぎゅうぎゅうと頭を抱きしめられる。日頃からぬいぐるみ扱いしてる仕返しらしい。確かにことあるごとに抱き込んでしまっているがシュウからすれば精神衛生上大変よろしい効果しかないので改善しろと言われてもどだい無理な話である。
「今日はいつになく機嫌がいいようですね」
「何でだろうな。でも、特別何かあったわけじゃねえんだ」
「では、なぜ?」
「——風が気持ちいいんだよ。あと柄じゃねえのはわかってるんだけどよ、ここの庭、綺麗だろ。見てて何か気分がいい」
 最高の賛辞だった。
「あなたを連れてきたかいがあった」
 自分を抱きこむ腕から抜け出すとシュウはいつものようにマサキを腕に中にしまい込む。
「……お前、おれの話を聞いてたか?」
「聞いてはいましたが承知した覚えはありませんよ」
 こんなに楽しいことをやめてしまうだなんてとんでもない。
「それにしてもここはほんとに気持ちがいいな。北風の入り込む隙がねえ」
「地形的にも位置的にも朔風を避けて設計されていますからね」
「さくふう?」
「北風のことですよ」
「いや、だったら素直に北風って言えよ」
「それは失礼。てっきりあなたにも通じるかと」
「………よし、わかった。お前今すぐ出てけ。でもって明日までこっちくんな」
 どうやらカチンときたらしい。先ほどまでの機嫌の良さはどこへやら。あっという間に雷雲到来である。こうなるともはやシュウに打つ手はない。シュウ自身がそうであるようにマサキもまたシュウに負けず劣らず非常に頑固なのだ。一度こうと決めたらてこでも動かない。しかし、だからといって素直に叩き出されるわけにはいかない。こんな素晴らしい時間はそうそうないのだ。シュウは抵抗を試みる。
「それはいくらなんでも横暴というものでしょう。たまたま言葉選びを間違っただけですよ」
「歩く慇懃無礼がしおらしいこと言ってんじゃねえ。いいから今すぐ出ていきやがれ——っ‼」
 今やこの館の主はマサキである。結果、抵抗むなしくシュウはかつての母の部屋——今はマサキの部屋から問答無用で叩き出されたのだった。
「ご主人様、馬鹿ですか?」
 本日は局地的な朔風日和だったようである。

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