夏の庭-前日譚

夏の庭
夏の庭長編・シリーズ
第一章 飛行機雲はもう見えない

 泣いてしまえば、よかっただろうか
 繋いだ手を放して
 風が歌う
 名も知れぬ鳥の群れが夏空を舞う
 風切り羽が夏空に記す鳥の詩
 海辺にある過疎の村。かつては堤防沿いに観光列車が走っていたらしい。廃線になって久しい線路は錆びついて雑草に占拠されている。堤防の向こう側は白く寂しい砂浜だ。海まで数メートルもない。辺鄙な所にあるからか海水浴客の影も皆無だ。本当に人っ子一人いない。寂しい夏の絵。
 ジャケットを脱ぐ。思ったよりも陽射しが熱かった。そのままジャケットを肩にかけて錆びた線路の上を歩く。何となく雑草を踏みたくなかったのでレールの上を歩いた。
 しばらく歩くとかつて無人駅だったらしい場所にたどり着く。軽く地面を蹴ってホームへ。駅を出れば正面にはまた堤防。そのまま堤防沿いに歩いていくと小さな埠頭に出た。積み上げられたテトラポット。
「見えねえなあ、飛行機雲」
 頭上を見上げれば自己主張の激しい入道雲が視界を埋める。名も知れぬ鳥の群れ。あれはただ鳴いているのだろうか。それとも歌っているのだろうか。
 幼い頃はよく飛行機雲を追いかけていた。追いかけた先に何かがある気がして。そんなものはどこにもないのに。子どもの足では決して追いつけはしないのに。ましてやこのラ・ギアスの空の覇者は自分が乗るサイバスターだ。飛行機雲などあろうはずもない。
 踵を返す。向かう先は人っ子一人いない砂浜。堤防の高さは約二メートル。幸い足場になりそうな岩場がいくつかあった。あれを使えば楽に戻れるだろう。いざとなったら使い魔たちにサイバスターで迎えに来てもらえばいい。迷うことなく堤防を飛び越えて砂浜へ。着地と同時にブーツを放り投げる。ついでにジャケットも。
 波とともに押し寄せる潮風。海の香り。ためらうことなく海へ入る。波に足を取られないよう足首まで。
 頭上を見上げれば名も知れぬ鳥の群れ。埠頭で見た群れとは別の群れだろうか。
「見えねえなあ、飛行機雲」
 気づけば同じことを口にしていた。懐かしいのだろうかこの夏空が。あるいは飛行機雲を追いかけていたあの頃が。閉じられた地底世界に空の彼方など存在しないというのにいまさらどこへ。
「何してんだろうな」
 答えなど返るはずもない。いつの間にか進んでいた足。波が膝に当たる。さざ波だ。足を取られるほどではない。
 もう一歩。
 何かに腕を引かれるように。
 波が来る。少し大きい。けれど歩みは止まらない。
 もう一歩。
 波が来る。今度は足を取られるかもしれない。その程度には大きな波だった。
「まあ、いいか」
 自然と声が出た。なぜだろう。一瞬だけどうでもよくなった。飛行機雲はもう見えない。ただひたすらに追いかけた日々は遠く彼方に消え去って。
「どこへ行くつもりですか」
 足を取られる寸前、波がはじけて押し返される。腕を引かれると同時に体が反転し、顔を上げる間もなくかき抱かれる。視界をかすめたのは見慣れたロイヤルパープル。まさかこんな所に来てまで鉢合わせるとは。
「はっ、お前も暇人だな」
「どこへ、行くつもりです」
 繰り返し問われた。少し機嫌が悪い。声を聞けばわかる。それでわかるのはあなたくらいですよ。そう呆れられたのはいつのことだったろうか。これだけ露骨な声を出しておいて何を言うのか。むしろ呆れたいのはこちらのほうだ。
「どこにも行かねえよ」
 飛行機雲はもう見えない。だから、どこにも行けない。この空は閉じている。閉じてしまっているから。
「どこにも、行けねえんだ」
 飛行機雲の先にはもう二度と。
「私たちがいるのにですか」
「何だよそれ。お前、ガキじゃねえんだからよ」
 デカい図体をした大人が何を言っているのだ。笑いがこみ上げる。
 遠い彼方の飛行機雲。
 脳裏に焼きついて離れない紺碧の夏空。
 もう届かない。帰れない。
 けれどすべては自分が選んだ結果だ。
「どこにも行きやしねえよ。お前、置いて行ったらスゲぇ面倒くさいことになるじゃねえか。自覚ねえのかよ」
 本当に面倒くさいのだこの男は。その気になれば世界の一つや二つ平気で握りつぶせるくせに。何をそんなに怯えているのやら。
「ほんと面倒くせえ」
「誰のせいですか」
「おれのせいかよ」
「他に誰がいますか。少しは自覚くらいしたらどうです。迷惑な」
 どこまでも面倒くさい男に迷惑だと言われてしまった。とりあえず引っ叩こう。しかし、かき抱かれていてはそれも叶わない。理不尽だ。
 結局何をしに来たのだろう。もう思い出せない。ただ、海を見たかった。夏空の下で。そしてもう一度あの飛行機雲を追いかけたかった。そんな気がする。
「そろそろ帰るか」
 かき抱く腕から抜け出してジャケットとブーツを拾う。どこかで足を洗わなければ。あの村に井戸はあっただろうか。
「待ちなさい。まさか素足で岩場を登る気ですか」
 信じられないと絶句された。まいどまいど失礼な奴だ。
「ヤバいと思ったらブーツ履きゃあいいだろ。あとで洗えばいいんだからよ」
「……はあ。わかりました。少しおとなしくしていなさい」
 当然のように歩み寄って来たかと思えば両脇に手を入れられそのままひょいと担がれる。一瞬、何が起きたのかわからなかった。世の常識よ五九キロという厳然たる事実をどこへかっさらった。抗議の声を上げる間もなく足下に浮かぶ魔方陣。次の瞬間には堤防の向こう側に立っていた。
「さあ、行きますよ」
 地面に下ろされると今度は手を引かれる。向かう先は海辺にある過疎の村。裸足で歩く。陽射しを浴びた地面は少し熱い。
 繋いだ手。
 いつかきっと離される。
 否、離す。
 置いては行けない。行かない。それは本心だ。けれど連れても行けない。
 だってきっと置いて逝く・・・・・から。
 だから、だから。
「見えねえなあ、飛行機雲」
 泣いてしまえば、よかっただろうか。
 繋いだ手を離して。

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