第二章 君が指さす星空は
本音を言えばシュウは夏空があまり好きではなかった。正しくは飛行機雲が浮かぶ夏空が苦手だった。長く尾を引くあの雲がありもしない彼方に彼を連れて行ってしまいそうで。
そして今、シュウはあの夏空ではなく星空の下にいる。愛機であるグランゾンはない。はしゃぐマサキに半ば強引に連れてこられたのだ。正直、あまりの強引さにシュウは絶句してしまった。何をそんなに興奮しているのか、と。
「ああ、確かにこれは美しい……」
見上げる先には満点の星々。デネブ・ベガ・アルタイル。幼い頃に母から聞いた地上の夜空を飾る夏の大三角形。今その真下にはマサキがいる。夜目にも鮮やかな新緑の髪を夜風になびかせて。優に数メートルは離れているはずなのに興奮している様子が手に取るようにわかる。マサキを取り巻く風がはしゃいでいるのだ。
「夏の大三角形見に行くぞ!」
ちょうど日本が夏の時期に当たることを思い出したらしい。夏といえば星座と花火。そして、夏の星座といえば夏の大三角形。それがシュウのセーフハウスにマサキが飛び込んで来た理由だった。
「残念ですがグランゾンは今調整中ですよ」
「じゃあ、お前がサイバスターに乗ればいいだろ!」
常にない勢いに呆気に取られるシュウを引っ捕まえサイバスターに乗り込んだマサキはめずらしく一発で目的地にゲートを開いた。設定をしたのがシュウだったからというのもあるだろう。
「待ちなさいマサキ」
地面に膝を突いたサイバスターの右手を足場に地上へと飛び降りる。まるで羽でもついているかのようだ。ゲートを開いた先は名も知れぬ山の山頂。
雲はない。月もない。ただ満点の星空だけがそこにある。夜空に敷きつめられた無数の貴石。過去から現在に至るまで数多の人間がこの輝きに魅せられて物語を綴り歌い奏で叡智をかき集めてその正体に迫った。
「なあ、スゲぇだろ?」
見ているこちらが釣られてしまうくらい満面の笑み。両手を広げまるで星々を抱え込むかのようを夜空に向かって手を伸ばす。本当に星々をすくい取ってしまいそうだ。
「前に言ってただろ、星座の話。知ってはいたけどまともに見たことなかったって。今じゃ普通に宇宙に出られちまうし、昔ほど興味もなくなったって」
「覚えていたのですか」
「だってなあ、お前から星座なんて似合わねえ単語が出てきたら普通忘れねえよ」
「失礼ですね」
「事実なんだからしょうがねえだろ。星座ってキャラかよ、お前!」
けらけらと声を上げて笑う。よほど機嫌がいいのだろう。最近は任務が立て込んでいて難しい顔をすることが多かったというのに。夏の大三角形は偉大である。
「けれどそうですね、自分でも柄ではなかったと思いますよ」
それがまだ幼子の夢であった頃ならまだしも地上に出る術を得たときにはすでに成人に達していた。星々に物語など存在しない。あれはほぼすべてが恒星でありその輝きの源は核融合反応によって生じるエネルギーだ。そう理解すると同時に幼心がいだいていたロマンは死に興味もまた失せてしまった。
もとより地上人であるマサキが星々の正体を知らぬはずがない。けれど彼は得意げに星座を語る。まるで小さな子どもに偉大なる冒険譚を語り聞かせる語り部のように身振り手振りを交え、それは誇らしげに。
もう自分は小さな子どもではない。いまさら架空の物語に夢見ることもない。けれど耳を傾けてしまうのはなぜだろう。知らず心が浮き立つのは。まるで何も知らぬ幼子に戻ったかのようだ。
ああ、そうか。星々の伝説は数千年の時を経て息を吹き返したのだ。自分は今その瞬間に立ち会っている。ならばこれはまさしく僥倖だ。一言たりとも聞き逃してなるものか。
「そういえば、お前七夕知ってるか?」
「織り姫と彦星のことですか。ベガとアルタイルでしょう」
「何だよ。興味がなくなったとか言って覚えてたんじゃねえか」
「ラ・ギアスからすればめずらしい風習ですからね。だいたい自らの怠慢で事態を悪化させておきながら逢瀬を許されるなどずいぶんと甘い為政者もいたものです」
だから余計に覚えていたのだ。
「……お前、そこに現実を持ち込んでくるなよ。しかも元王族のツッコミとか笑えねえだろ」
「事実でしょう?」
「いや、そうなんだけどよ……」
ロマンも何もあったもんじゃねえ。せっかく盛り上がっていたというのに。頬を膨らませるマサキにシュウはほんの少しばかり申し訳なくなる。彼の熱意に水を差してしまった自覚はあるのだ。
「そういえば、デネブは質量で太陽の一五倍、半径は一〇八倍、光度に至っては太陽の五万四四〇〇倍以上だそうですよ」
同じく夏の大三角を形成するベガやアルタイルは質量や半径が太陽の二、三倍程度で光度も太陽のせいぜい数十倍。デネブとは比較にすらならない。
「あれってそんなにデカかったのかよ!」
「ええ。三つの星が肉眼でほぼ同じ明るさに見えるのはデネブだけが太陽系から極端に離れているからです」
仮にベガの位置にデネブがあった場合、金星の最大光度よりも一五倍も明るく三日月とほぼ同じ明るさの点光源で見えることになる。
「三日月とほぼ同じって……、スゲぇな」
ふてくされたり呆れたりこれでもかと目を丸くしたり。本当に表情がころころと変わる。まるで何事にも一喜一憂する幼子のようだ。
「話に水を差してしまいましたが、続きを聞かせてはくれないのですか?」
「聞く気あるのかよ」
「ええ。他でもないあなたが話してくれるなら」
「お前ほんとわけわかんねえ奴だな」
けれどその表情は嬉しげだ。自然とシュウの口許もほころぶ。夏空の下で輝く彼は星空の下にあってもなおその輝きを失うことがない。それどころかいっそう輝いて見える。事実、冷たいはずの夜風ですら彼の周りではしゃいでいるではないか。まるでそこだけが夏空の下だ。
「じゃあ、今度は水差すんじゃねえぞ」
「ええ」
そして偉大なる冒険活劇は再開される。
時間にして数時間もなかっただろう。けれど幼心の慰めには十分だった。誰にも見向きされることなく遠い記憶に底に打ち捨てられた少年の星空。それがこんな形で叶うなどと夢にも思わなかった。
これは人生で二度とない星空。永遠の夏の大三角形だ。
「どうだよ。星空も星座も結構面白いだろ」
だから、少しくらいロマンを持て。どこか勝ち誇った顔でふん、と鼻をならすマサキにシュウは素直にうなずく。
「そうですね。認識を改めましょう」
一人で見上げる夜空の虚しはもう忘れてしまった。今シュウの胸にあるのはマサキが指さす夏の大三角形への強烈な焦がれだけだ。星空とはこれほどまでに美しいものだったのだ。何ていとおしい。
その後、マサキが音を上げるまでシュウは星々の物語をねだった。時にそこへ自らの知識を添えながら。
まるで本当に子どもの相手をしているようだった。翌朝、シュウのセーフハウスで寝坊してしまったマサキはそう言って愉快そうに笑った。
「あなたの話が上手いのですよ」
ひねくれ者の「観客」は少し気恥ずかしげだった。
そうして【永遠の星空】を得た彼らは夏空の下、廃村のヒマワリ畑へと至る
