夏の庭 – 表

夏の庭
夏の庭長編・シリーズ

 とある難民キャンプでの悲劇だった。
 国を追われ家族を奪われ、逃げのびた先で唯一生き残っていた愛娘を涙ながらに抱きしめた——その直後に娘はキャンプ内で陵辱された。懸命な手当もむなしく一方的な暴力を振るわれた娘は保護からわずか数時間後に息を引き取り、極限状態の中にようやく奇跡を見いだしていた男は自ら正気を手放したのだった。
 男はかき集めた瓦礫でキャンプを警備していた兵士を殺害するとその装備を奪い許されざる大罪人を求めて殺戮を開始した。
 男はすぐに射殺されるかと思われた。だが、場所はキャンプ内でもっとも人口が密集していた場所であり仮設の住居が並ぶ中で多くの女子供が身を寄せ合っていた。遠距離からの狙撃はもちろん近距離からの射殺もほぼ不可能だったのだ。
 悲鳴を上げて逃げ惑う人々。押し合いへし合い、蹴躓いた誰かを踏みつけ踏み殺し、あるいは殴りつけて押し倒し我先にと安全な場所を求めて逃げ惑う。
 傷を負った者、老いた者、幼き者。力弱き者たちは真っ先に犠牲となった。
「うわぁっ⁉︎」
 逃げ遅れたのはわずか五歳の少年だった。はぐれた妹を探し無謀にも母親の手を振り切って惨劇の渦中に戻ってきたのだ。
 視線の先にはただ一直線に自分を狙うライフルの銃口。
「馬鹿野郎、何してやがる!」
 射線上に飛び込んできた新緑の髪。男の身体が吹っ飛ぶ。その顔面を直撃したのは拳ほどの瓦礫だった。
「え、ら……、らんどーる、様」
「いいから、黙って目をつむってろ。ガキがこんなもん見るんじゃねえっ‼」
 抱き上げられ肩に担がれる。
「こいつを頼む!」
「はっ!」
 駆け寄ってきたのはラングラン兵だっただろうか。
 絶叫と銃声がキャンプ内を突き抜ける。男は倒れてなどいなかった。口から泡と涎を垂れ流し右目を血に染めたまま男はかつて故国に存在したという神を心の底からののしりつづけた。
 哀れだ。そう、男は哀れだった。だが、その哀れが生んだ惨劇を許す者などもはやどこにもいなかった。
 狂人の射線など誰が予想できよう。跳弾の危険性もある。殺傷力を押さえるために投石という手もあったがこんな密集した場所でしかも狂人の凶弾をよけつつ正確に急所を狙うなど無理難題も甚だしい。
 しかし、世に神はおらずとも神に近き精霊は実在したらしく、一瞬、砂塵を舞い上げた突風がキャンプ内を駆け抜ける。
 砂埃が男の視界を奪う。一点に集中する殺意。銃弾は男の急所を複数箇所正確に撃ち抜いた。しかし、最後の凶弾を阻止するには至らなかった。
 跳弾。狂気が牙を剥いた先は老いた母と重傷を負った年頃の娘。
 絶叫を振り切って新緑が駆ける。
 ほぼ即死だった。

 彼らは一体何を言っているのだろう。
 目の前にあるこれは何だろう。
 声を上げる者はいなかった。
 声を上げるには目の前の現実を理解する必要があったからだ。
「……ねえ、何これ」
 最初に声を上げたのは「彼」のたった一人の妹だった。

 彼がかばった|母子《おやこ》も老いた母親こそ無事であったが目の前で娘を撃ち殺されたショックでほぼ廃人と化したらしい。犯人の男は遺体すら残っていなかった。
 哀れな男が撃ち殺したのは一兵卒ではない。風の魔装機神サイバスターの操者、マサキ・アンドーだ。
 当時、難民たちの国と紛争状態にあった某国とはようやく休戦協定が締結されたばかりであったが、休戦が締結された最大の理由は魔装機神隊、中でも四体の魔装機神による圧倒的な武力介入が大きかった。とりわけ大きく影響したのが両軍の兵器を一瞬にして破壊する【大量広域先制攻撃兵器】——サイフラッシュとそれを有するサイバスターの存在だった。
 難民たちは理解していた。休戦の締結は男が撃ち殺した青年の存在が大きく関わっていたからであり、青年を失った今争いは再びそれも今以上に大きな戦禍をともなって拡大するだろう、と。
「……せ、……殺してしまえ‼」

 何てことをしてくれた
 何てことをしてくれた
 私たちの救いの手を、よくもよくも殺してくれた
 許してなるか、許してなるものか
 殺せ、殺してしまえ‼

 憤怒が憤怒であったのは一瞬だった。それは瞬きの間に憎悪へ転じ、一呼吸を経たときには殺意と化して爆発した。
 その場にいた何百という人間が一斉に男の死体に躍りかかり、殴り蹴りつけ、石を打ち、誰かから奪った銃で何発もの銃弾を撃ち込んだ。死体に鞭打つ者の中には幼子も老いた者もいた。後に聞けば彼らはときどきマサキに遊び相手をねだっていたらしい。老いた者の多くは彼らの祖父母であった。
 もはやその場に正気も正義もありはしなかった。
 何百人もの報復者たちによって文字通り八つ裂きにされた男の遺体は皮膚の一片すらも残らなかった。

 悲劇が坂を転がり落ちる。
 難民たちの支援にもっとも協力的だったのはラングランだった。事実上、魔装機神隊を有しているのがラングランだったからだ。魔装機神隊の理念もあって他国よりもその支援を手厚くしなければという面子もあっただろう。
 だが、世論は一転した。
 殺されたのは名も知れぬ一兵卒ではない。
 一六体の正魔装機の頂点に立つ風の魔装機神サイバスターの操者、マサキ・アンドー。そして、ラングランにおいては剣神ランドール・ザン・ゼノサキスの聖号を賜与された救国の英雄。彼は大国ラングランの栄光の一端を担っていたのだ。
 建前上、難民キャンプへの支援を一方的に打ち切ることはなかったものの、かねてから議題に上がっていた難民の受入れや今後の継続的支援について議会では消極的な意見が目立つようになった。
 救国の英雄を殺害された「被害者」である我々がどうして「加害者」たちを積極的に助けなければならないのか。そう胸の内で呪う声は少なくなかった。
 
 風が悪夢を呼んでいる。
「あなたは何を言ってるのですか?」
 十日近くこもっていた研究室から出るなり飛び込んできたチカは半狂乱の体で泣き叫んだ。
「嘘じゃないんです、嘘じゃないんです。ご主人様!」
 このままでは間に合わない。彼が消えてしまう。棺が閉じられてしまう。
 羽を散らしながら叫ぶおのれの使い魔にシュウはしばらく呆然としていた。
 ほぼ即死だったという。
「馬鹿なことを……」
 否定するのが精一杯だった。
 そう遠くない未来、誰も彼もを置いて彼は逝く。その確信はあった。どうあがいても自分たちは置いて逝かれる側だ、と。
 けれど、けれどけれど!
 脳裏をよぎるのは焼きつける夏の青空と入道雲。視界いっぱいのヒマワリ畑。
 任務が終わればまとまった休みが取れる。だから、あのヒマワリ畑へ行くのはもうしばらく待て。食事はこちらで用意するから次の休みにでも行こうと誘えばマサキは腕組みしながらそう言った。おれだって忙しいんだからな。そう言ってむくれる彼の機嫌を取るために買い求めた焼き菓子はいくつあっただろうか。
 受け入れられるはずがない。彼が逝くのはその責務に殉ずるときだと思っていた。狂乱状態であったとはいえ彼が助くべき者の凶弾によって倒れるなどあってはならない。
 もうすぐ棺が閉じられる。
 チカは言った。
「場所は、どこですか」
 棺を閉じさせてはならない。あの夏空にはあのヒマワリ畑にはまだ彼の「記憶」が残っているのだ。

 相互不理解。
 その現実をもって今再び戦端は開かれる。
「マサキは返してもらいます」
 そして、【夏の庭】は開かれた。

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