第三章 翡翠、その羽
待っていてください。もうすぐ、帰ります。
「庭」へ、あなたのもとへ。
にわかには信じられなかった。
魂を裂かれラ・ギアスに散った?
誰の魂が? マサキの? 精霊界に招かれてすぐ?
ありえない。それが悪逆の徒を見舞った災厄ならば納得もできよう。当然の報いだ。だが、彼は違う。
風の精霊王サイフィスに選ばれ魔装機神操者としてラ・ギアスの平和と未来のために身を捧げたマサキに一体何の咎が。亡骸を冒涜され魂すら引き裂かれるほどの罪科を彼が隠し持っていたとでも言うつもりか。精霊たちは名も知れぬ神々はなぜこのような蛮行を見過ごしたのだ。
引き留めるモニカたちを振り払い走る。引き裂かれた魂が安らげる場所など一つしかない。
『鍵』を手に「庭」へ足を踏み入れた瞬間、羽が舞った。陽の光を受けて風に舞う翡翠の羽。幻だ。都合のいい幻。彼がそこにいのではと未練たらしく願ってしまった。けれどこの身は精霊でも神でもない。真実、彼の魂がそこにあるかどうかを判ずる手段がシュウにはなかった。
「ど、どうしたんですか、ご主人様?」
「……マサキの魂が精霊界から消えました。何者かに引き裂かれラ・ギアスに散ったそうです」
「はぁっ⁉︎」
チカがヘッドボードから飛び上がる。ありえない。シュウがそうであったようにチカもまた叫んだ。
「ど、ど、どどどどうしてそんなことにっ!」
「私が聞きたいくらいですよ」
本心だった。
「引き裂かれた魂の行方はようとして知れないそうです。ただ、ある程度見当はつきます」
「……あ」
主人の視線を追えばたどり着くのは寝台の彼。そうだ、かつてその魂を宿していた彼の亡骸。引き裂かれた魂が求めるであろう安息の棺。
「とはいえマサキの魂を引き裂いたのが何者であるか、現時点では不明です。どのような手段を用いたのかも。ですから、ここに引き裂かれた魂のすべてがあるとは断定できません」
けれど間違いなくその一片はこの地にある。そうであってほしい。
「マサキの魂の捜索に関してはいったん彼らに任せましょう。おそらくイブン大神官に助けを請うはずです」
テューディの件でも助力を求めていたはずだ。彼女ならば何かしら妙案を思いつくかもしれない。引き裂かれた魂を癒やす術も。
「私は私にできることを優先します」
あの忌まわしい封印の解咒。これは自分にしかできない。
「しばらく、こちらには来られそうにありません」
もはや手段を選んでいる場合ではない。何としても文献をそろえ解咒に必要な術式を組み立てなければ。
ネット上に流出した文献の情報をシュウは片端から精査し当該データをかき集めた。しかし、流出した情報、あるいは非合法に売買されているデータは基礎的な箇所が多く、より高度な術式に関してはやはり文献を所蔵する施設へ赴く必要があった。
物理的なセキュリティはどうともなるが問題は魔術的なセキュリティだ。世に数冊しかない稀覯本を有する施設ともなれば物理と魔術、どちらか一方のセキュリティシステムだけで運用されているとは考えにくい。改めて確認してみたが連続転移で強引に突破できる施設は一握りもなかった。
【認識阻害の魔術】はまず無効化されるだろう。最悪、力尽くで突破する方法も考えたがそれでは蔵書を傷つけてしまう。
となれば、中の人間に「協力」してもらうしかない。
「あまり使いたくはありませんが……」
教団が儀式と洗脳のために用いていた幻覚剤。必要な材料も精製法も把握している。いずれも安価に仕入れられるものだがその効果は覿面だ。
必要なものは山とある。まずは文献が所蔵されているだろう非公開部分を含んだ見取り図。理想は設計図だ。施設内の詳細は『協力者』の準備ができてから集めればいい。最短ルートの割り出しに必要な計算はそれからだ。場合によっては天候も加味しなくては。
問題はもう一つある。魔装機神隊とのバッティングだ。当たり前だが彼らはシュウが取り返したマサキの亡骸を今も探している。それは彼の身に施された封印の解咒についても同様だ。
「衝突は避けられませんね」
数日前、斬りかかられたのだ。
「お兄ちゃんを返してっ‼」
先を急ぐあまり【隠形の術】を解除したままだったのだ。だが、グランゾンとディアブロでは機体の性能差などくらぶべくもない。にもかかわらず、彼女は斬りかかってきた。父と兄を『奪われた者』として殺意もあらわに。
「駄目よ、プレシアっ⁉︎」
何かしらの任務の帰りだったのだろう。あとから駆けつけたガッデスのファミリアに押さえ込まれるまでプレシアはグランゾに何度も斬りかかってきた。あの春風のような少女が憎悪に顔を歪ませ殺意を隠しもせず、ただただシュウを呪いながら。
「それでも、譲れないのですよ」
彼に【自由】を返すのは自分だ。他の誰にも譲らない。たとえ【世界】を呪い、神を打ち倒してでも。
「なぜ、奪ったの」
静かに、けれど凍りつくほど冷たい声音でシュウを問いただしたのはテュッティだった。プレシアにとってマサキがたった一人の兄であるなら、テュッティにとってマサキはたった一人の弟のような存在だった。地上からラ・ギアスに召喚されてしばらく、マサキの面倒を見ていたのは彼女なのだ。
「答える義理はありません」
これはマサキの名誉に関わる問題だ。背教者と通じていたなどと誰が答えられよう。だが、彼らもある程度の見当はつけているはずだ。あの日、大聖堂で彼の亡骸をかき抱き「返してもらう」と宣言したのはシュウなのだから。
「マサキの魂を引き裂いたのもあなたなの?」
「同じ事を言わせないでください。あなた方に答える義理はありません。そもそもあなた方は私の言葉を信じる気があるのですか?」
「それは、どういう……」
「言葉通りの意味です。仮に私がまったくの無関係だったとして、あなた方は私の言葉を信じるのですか?」
「……」
「その沈黙が答えです。それでは失礼」
「待ちなさいよ。お兄ちゃんを返して、返せーっ‼」
それは正しく咆哮だった。尽きることを知らぬ怨嗟の咆哮。けれどシュウは背を向けた。こんなところで時間を無駄にするわけにはいかない。一刻も早く忌まわしい封印を解き彼に【自由】を、その魂に安寧を。そして、彼の魂を引き裂いたであろう何者かに絶対の応報をこの手で。
気づいたのはセニアだろうか。あるいはテリウスを通じてモニカが伝えたのか。しばらくしてシュウが封印の解咒方法を探していると知った魔装機神隊の面々は半信半疑ながらシュウにコンタクトを取ってきた。だが、シュウはそれをことごとく拒否した。
今現在、魔装機神隊はラングラン政府のバックアップを受けている。政府からの要請があればそれを断り切ることはほぼ不可能だろう。そして、ラングラン政府はマサキの亡骸の『所有権』を主張し、背教者としてではなく『英雄の亡骸を略奪した犯罪者』としてシュウを国内外に再度指名手配した。
マサキの亡骸はすでにラングランにおけるひとつの権威だ。当然だろう。彼はラ・ギアス人が信奉する精霊王の一角、風の精霊王サイフィスに選ばれた魔装機神操者でありラングランにおいては「救国の英雄」であったのだ。その亡骸は争いの火種として十分過ぎた。
政府があの棺を用意した時点ですでに手遅れだったのだ。遅かれ早かれ魔装機神隊はマサキの亡骸の「処分」について決断せざるを得なくなる。
「少し……、根を詰め過ぎたでしょうか」
だが、倒れるわけにはいかない。ようやく光明が見えてきたのだ。表層部分の封印をほどくための術式はひとまず完成した。問題はその間に挟み込まれた三層の『防御壁』だ。おそらく下層のそれも同系統のものだろう。
解咒の術式をそのまま走らせただけでは『防御壁』ではじき返される。それだけならまだいい。最大の問題はその術式を下層の『防御壁』に送信、『防御壁』の改変が行われる点だ。そのため解咒と『防御壁』の無効化を同時に行う必要がある。
「現存する写本はエクシール共和国のアモント修道院図書館の二冊だけですか」
『防御壁』を無効化するために必要な術式。その基礎部分が記されているだろう文献。五万五〇〇〇年前に存在したトロイア文明の封印術を写した『イツァグ写本』
急がなくては。マサキの亡骸の「処分」を彼らが——【世界】が選択する前に。
図書館内のデータはすでにそろえた。『協力者』も十分確保した。あとは写本を手に入れるだけだ。
「シュウ様、お願いです。シュウ様、どうかわたくしの話を聞いてください。このままでは風が、彼が……、シュウ様っ‼」
悲痛な叫びは何を訴えていたのだろうか。よく聞こえなかった。急がなければ。
風がよどむ。薄れていく土と草木、そして太陽の匂い。まぶたの裏を舞う翡翠の羽はもう見えない。残酷な幻は息絶えてしまった。
「待っていてください、もうすぐ」
帰ります。「庭」へ、あなたのもとへ。
【世界】を呪い神を呪いけれど一心に祈りながらシュウは向かう。ようやく見いだした希望を目指して。
そして【世界】はついに断罪の刃を振り上げたのだった。
