嫌な予感がしていた。
足下を黒猫がよぎった。おのれの使い魔かと思えば普通の黒猫。訴えたいことがあるのかマサキの足下に絡みついて離れない。切実な悲鳴。そう、悲鳴だ。差し迫る圧倒的な悪意。黒猫が訴えているのはそれだ。不思議と確信があった。ゆえに駆けた。
「あなたもうぼろぼろ寸前なんだから、今日はおとなしくしているよ」
テュッティからは仮設の宿営で休むよう何度も言い含められていた。
マサキは今とある難民キャンプにいた。ラングランを基準に考えれば小国未満の国同士で起きた紛争。その被害者たちを保護するためだ。紛争の原因は地下資源だった。紛争は開始からすでに三カ月が経過しておりそれぞれの支援国の思惑もあって長期的な代理戦争化が懸念されていた。
マサキたちの任務は休戦協定の締結支援。難民キャンプの警衛なども含めれば十日以上かかったものの魔装機神による圧倒的な武力介入によって戦闘は一時中断を余儀なくされ、つい先日ようやく休戦協定が締結されたばかりだった。
魔装機での戦闘に加えキャンプ内での犯罪も並行して取り締まっていたマサキの疲労はたまるばかりだった。そのうえ両軍の衝突を止めるために連続使用せざるを得なかった【大量広域先制攻撃兵器】——サイフラッシュ。ヤンロンは言うまでもなくテュッティからもこんこんと説教されてしまった。ミオからは「いい加減にしろ!」と一喝までされたのだ。だが、それでもマサキは無理を押してひたすらに駆けた。とてつもなく嫌な予感がしたのだ。
一心不乱に駆ける黒猫を追ってたどりついたのはキャンプの外れにある設置途中の仮設テント裏。妹よりも二、三歳年上だろうか。一人の少女とそれを取り囲み押さえつける大柄の男たち。一方的に暴力を振るわれたのだろう。少女の顔は赤黒く染まっていた。右手があらぬ方向に曲がっているように見えるのは幻だろうか。
「何やってんだてめぇらああぁぁ——っ‼」
悪い予感は的中した、一つ目。
「あなたは何を言ってるのですか?」
十日以上はこもっていた研究室から顔を出すなり飛び込んできたチカは半狂乱の体で泣き叫んだ。
「嘘じゃないんです、嘘じゃないんです。ご主人様!」
このままでは間に合わなくなる。彼が死んでしまう。羽を散らしながら叫ぶおのれの使い魔にシュウはしばらく呆然としていた。
今夜が峠だと言われたそうだ。
難民キャンプでの暴行事件。一三歳になったばかりの少女を連れ去り大の大人がよってたかって一方的な暴力を振るった挙げ句、恥知らずにもレイプしようとしたのだ。だが、それは未然に防がれた。その現場にマサキが居合わせたからだ。その後の展開は推して知るべし。暴漢どもは完膚なきまでに叩きのめされ駆けつけた兵士たちに連行されて行った——と思われた。
連行される寸前、捨て鉢になったひときわ体躯のある男が兵士を振り払い足下にあった瓦礫で少女に殴りかかったのだ。
「きゃああぁぁ——っ⁉︎」
だが、寸前で少女の死は回避された。悲鳴を押しのけるように新緑が駆けたからだ。
悪い予感は的中した、二つ目。
脳挫傷。直撃したのはこめかみ。屈強な体躯の男が殺意を一心に込めた一撃だ。無事ですむはずがなかった。もとより連日の戦闘で疲弊し体力も限界だったのだ。
可能な限りの治癒術をかけつづけながら搬送された先は難民キャンプからもっとも近い位置にあったラングランの州軍病院。健常な状態であればまだ希望も持てただろうがプラーナが極端に減った状態ではまず回復は絶望的と判断された。そもそもこの軍病院には専任の脳神経外科医がいなかったのだ。
「私が……、私に任せてください!」
ヤンロンたちに追いすがる形で半ば無理矢理軍病院に乗り込んできたのはマサキが助けた娘の父親であった。ダリアス・ナベリウス。いつかの世界線でマサキを撃ち殺した男は狂気に果てなければ優秀な脳神経外科医であった。
彼らは抵抗する、徹底的に抵抗する
長い長い試行錯誤と長い長い抵抗をもって彼らは【世界】に叛逆する
一命は取り留めたもののほぼ危篤状態であることには違いない。最新設備がそろった王都の病院へ搬送できれば一番なのだろうが状態が状態だけにうかつに動かすこともできない。何よりヤンロンたちには任務があった。サイバスターが行動不能状態に陥った今、残る三体の魔装機神で現状を維持しなくてはならない。ようやく締結された休戦協定をここで破棄させるわけにはいかないのだ。彼らは決断せざるを得なかった。
リスクを計算している暇はない。シュウは取り組んでいたデータをすべて破棄してグランゾンを起動する。途中、モニカを呼び寄せそのまま州都の軍病院へ。
移動に関してグランゾンは【隠形の術】で病院内への侵入後は【認識阻害の魔術】をかけて。病室に駆けつけた時にはすでに深夜を過ぎていた。
「こんな……、あんまりですわっ⁉︎」
乗り込んだ病室でモニカが声を上げる。魔力を通して彼女が見ているのは命の炎そのものだ。
「——できますね?」
「お任せください、シュウ様」
モニカは胸を張ってうなずく。出奔したとはいえ彼女は王女である。民を治め助くのが彼女の使命であった。
地上であればまず回復は望めなかったであろう。地上の医療に魔術を用いた治癒術は含まれない。外科的措置では到底かなわない超細部の治療をモニカはマサキに施す。彼を死なせてはならない。マサキの死がこのラ・ギアスに小さくない諍いを生むであろうことはモニカもよく理解していた。
その祈りと献身は何時間続いたであろうか。白くなりつつあった頬にほんのわずかではあるが血の気が戻る。
「シュウ様!」
それは歓声であった。
「よくやりました、モニカ。あなたは先に戻っていなさい。痕跡を消したら私もすぐに戻ります」
長時間におよぶ治癒術の行使。極度の疲労に足をもつれさせながらモニカは一足先に部屋を出る。
シュウは恐る恐るベッドに近寄るとそっとマサキの頬に触れる。微かではあるが血の温かさを感じる。単なる錯覚かもしれないが今はそれにすがりたかった。
「あなたを今一度此岸に連れ戻せるなら、いくらでも」
差し出そう——この血と魂の一切を。
そう、あなたたちは抗うのね
長い長い試行錯誤と長い長い抵抗を繰り返して
あなたたちは【世界】に叛逆するのね
ただの【枝葉】に過ぎないあなたたちが
彼女は思案する
ねえ、あなた【夏の庭】で独り夢見るあなた
新しい【夏の夢】を見ましょうか?
やがて【世界】が再びさらうであろう彼の魂に向けて微笑みかける。
「夢を見ましょう。新しい【夏の夢】を。だから、帰りましょう。約束の夏空の下へ」
時の彼方、世界の彼方。彼をさらう【世界】の選択。繰り返されるべき歴史。やがて至る世界線の最果て。
けれど一度だけ、一度だけ目をつむろう。その選択に背を向けて。
「覚えていて。私たちが祈っているのはあなたの幸い。不幸ではないのよ」
【世界】はその喪失を一つの罰とした。だがそれは彼に咎があったからではない。ただ罪深き者を断罪するために利用されただけ。彼らはそれが許せなかった。ゆえに彼らは【世界】への叛逆を決意したのだ。
「めでたしめでたし」が死んでしまった世界線。その最果て、永遠の夏空を開き、閉じるために。
彼女は両手を広げ歌う。
「さあ、帰りましょう。あなたが果たすべき約束のために」
あなたに捧げられた魂と数多の願いに応えるために。
