最終章 君の知らない物語
これはいつかのどこか、始まりと終わりの【世界】線に隠れた幕間の物語。
太陽の季節が産んだ黄金の海原。どこまでも広がるヒマワリ畑。そして、それを背に屈託なく笑う【彼】。その影に向かって伸ばした手は誰のものだっただろうか。
「間に合いませんよ」
突然の宣告に慈悲はなく伸ばした手は正しく届かなかった。そうして指先に訪れたのは一方的な終焉。
空はひび割れ大地は渇き、黄金の海原は一瞬にして枯れ果てる。失われたものは【世界】そのものであった。あまりの無惨に呆然と立ち尽くす。【世界】とはこれほどたやすく死に絶えてしまうものなのか。
「足りない。足りない」
「もう一度。まだ間に合う」
「諦めてはいけない」
「さあ、次へ」
天から降って地から湧く何者か——【ハッピーエンドにたどり着けなかった『世界』の無念】——の声。
何を求めているのだろう。
何を繰り返しているのだろう。
何に挑んでいるのだろう。
けれどただの「亡霊」でしかない自分にそれを問う術はない。みじめに、無力に立ち尽くすだけだ。
ふと足下に目をやればそこには枯れ果てた一本のヒマワリが落ちていた。思わず拾い上げる。
「……あなたはどこにいるのでしょうね」
そう。どこにいるのだろう、【彼】は。
伸ばした手。けれどそれは届かなかった。何度繰り返しても間に合わなかった。一体幾度くじけそうになっただろう。救い難いと思う。それでも、どうしても諦めきれず今も自分はここにいる。長い長い試行錯誤と長い長い抵抗を続ける彼らの背を追って。ああ、そうだ。自分は彼らを追っているのだ。越えられないバッドエンド——その向こう側を目指して。
もう一度、枯れ果てたヒマワリに視線を落とす。
あなただけを見つめる。太陽に向かって咲くその様から人はこの言葉をヒマワリに添えた。にごる記憶の底でかすむ笑顔と紺碧の夏空、そしてヒマワリ畑。
まるで夢のようだと思った。
焼きつくほどに鮮やかな夏の青空と入道雲。そして視界いっぱいに広がるヒマワリ畑。この世の生命を何より謳歌する夏の情景。あの日、そこに並び立てるのだと信じて疑わなかった。今思えばまるで幼子のようだと失笑してしまう。けれど理不尽に満ちた【世界】はそんな取るに足りない願いを最悪の結末で踏みしだいた。
世を呪うことはたやすかった。神を呪うことも。けれどもそれだけでは【世界】の何も変わらなかった。それどころか結果として【彼】を独り「庭」に置き去りにしてしまったのだ。その後悔と忸怩は無念などという言葉では到底言い表せない。
「庭」に【彼】を独りを残し【世界】から切り離されてしまった永遠の夏空。そんな未来をどうして許容できよう。
「さあ、次へ」
ネオ・グランゾンの崩壊とともについえるはずであった意識を彼らによってすくい上げられて降り立ったこの場所は、始まりと終わりの狭間に隠れた幕間の地だった。
彼らは自分同様この結末に異を唱えていた。そして、バッドエンドを覆すべく長い長い試行錯誤と長い長い抵抗を開始したのだ。目指す結末はただ一つ。バッドエンドの殺害とハッピーエンドの奪還。
【世界】を渡る「旅」が始まった。
今はもう見えないはずの飛行機雲を一体何度ねめつけただろう。貴石が繋いだ夏の大三角形に胸を躍らせた記憶は数え切れない。そして、最後はいつも黄金のヒマワリ畑で立ち尽くすのだ。
なぜ見送ってしまったのか。たとえ拒絶されたとしてもその手を掴んで無理矢理にでも引き留めれば良かった。けれどもしょせんこの身は「過去」の亡霊。「現在」の自分に干渉する術などあるはずもなく、伸ばした手は宙をかき【世界】は常に規則正しく終わりへと向う。無力の壁は同時に絶望の壁であった。
「足りない。足りない」
「もう一度。まだ間に合う」
「諦めてはいけない」
「さあ、次へ」
その背中を見送ってしばらく。確定された【彼】の死をもって【世界】は必ず終わりを告げた。そして粛々と進むシナリオに従って自分は【彼】を独り「庭」に残し【世界】からはじき出される。
足りないものは何だろう。どうすれば間に合うのだろう。終わることのない自問自答。
「さあ、次へ」
そうしてまた【世界】を渡る。
ヒマワリ畑を背に笑う【彼】を探して。
「どこにも行きやしねえよ。お前、置いて行ったらスゲぇ面倒くさいことになるじゃねえか。自覚ねえのかよ」
数えるのも億劫になるほど心ない結末を見た。だが、それでも踏みとどまったのは【彼】の言葉が真実であったからだ。どれだけ遠かろうと【彼】は「ここ」にいる。ただ、伸ばした手が届かなかった。それだけ。足りない何かが埋まりさえすればきっとこの手は【彼】に届く。
そうして長い長い試行錯誤と長い長い抵抗の果て、求めつづけた欠片はついにそろう。
「にゃあ」
それは一匹の黒猫。始まりの悪意を射貫く善性の一矢。
「さあ、行きましょう!」
そして足下に一匹の黒猫を連れて最後の【世界】へと渡る。今度こそ今度こそこの手が届くと信じて、駆ける黒猫に祈りを託す。
「あなたを今一度此岸に連れ戻せるなら、いくらでも」
差し出そう——この血と魂の一切を。
あの日触れた冷たい頬ではない。人の血が通う温かい頬にこの手はようやく触れたのだった。
「見ろよ、これ。スゲぇだろ!」
新聞紙で包んだ大きなヒマワリの花束を抱いたマサキは上機嫌だった。惜しげもなく向けられる満面の笑顔に胸の内で凍りついていた何かが溶けていく。
ここは希った【世界】の終着点。目の前には雲立つ夏の青空と一面のヒマワリ畑が広がっている。最果ての夏空はついに終わりを告げ、独り置き去りにしてしまった【彼】もその自由もすべて取り戻した。
もうすぐこの「記憶」は溶けてなくなるだろう。当然だ。これは彼方でついえた『彼』のものなのだから。そしてだからこそ、この言葉は『彼』が告げるべきなのだ。
遠い遠い彼方で失ってしまったもの。
長い長い試行錯誤と長い長い抵抗の果てにようやく取り戻した唯一無二——この世でただ一人のいとおしいあなた。
「おかえりなさい」
かき抱く腕はほんの少し震えていた。
取るに足りない願いは今ここに、ようやく叶えられたのだった。
