第一話 ようこそ、滅びの不思議の国へ
この世には悪夢という言葉ある。恐ろしい夢。縁起の悪い夢のことだ。では、今目の前に広がるこの「世界」は何なのだろうか。
「どこだよここは……」
ここが現実世界でないことだけはひと目で知れた。
なぜなら目の前にはぐにゃりと歪んだ柱時計をまるでパズルのように組み合わせた巨大な凱旋門が建っていたからだ。その向こうには二メートルを超えるカラフルな砂時計をいくつも積み上げた見晴らし台がそびえている。十数メートルはあるだろうか。そして、その頂には鉄紺色のローブに身を包んだ不審者が立っていた。
「初対面の相手に不審者とはまたずいぶんな言いようですね」
どうやら向こうにはこちらの心が読めるらしい。マサキは舌打ちする。面倒な相手だ。
「見上げたままで話をするのは疲れるでしょう。すぐに下りますから」
そう言って何のためらいもなく見晴らし台から飛び降りた不審者は目に見えぬ大気の足場でバランスを取りつつ見事地面に着地して見せた。背格好からしておそらく一〇歳前後。その表情は深くかぶったフードのせいで窺い知ることはできない。
「私はフールと言います。あなたを迎えに来ました、マサキ・アンドー。あなたを現実世界に帰して差し上げますよ」
まずは握手をと差し出されたのはガラスの手だった。その内側を支えているのは真鍮の骨格であり神経の代わりに張り巡らされているのは七色の針金だ。よくよくみれば血管は透明なストローで血液として流れているのは砂糖をたっぷり含んだバタフライピーティーだった。
「どこの不思議の国だよ」
マサキは天を仰いだ。この瞬間に常識との別離が確定したからだ。座り込んだまま片手で顔を覆うマサキにフールは礼儀正しく一礼して言った。
「滅びの不思議の国へようこそ」
まずは一息つきましょうと用意されたのは何枚ものバラの花びらを閉じ込めた氷のテーブルと真っ赤なキノコの椅子だった。表面に多数のイボがあるように見えるのは気のせいだろうか。
「ベニテングタケですから気のせいではありませんね」
「やっぱそうかよ! 毒キノコを平然と椅子にしてんじゃねえっ⁉︎」
良識に忠実なマサキの反応は真っ当だった。
「食べなければ問題ありませんから。そこは気にしないでください」
だが、フールの反応はにべもない。それが余計にマサキの神経を逆撫でする。
「気にするわっ‼」
「いちいちツッコんでいたら喉を痛めますよ。少し落ち着きましょう」
そう言って差し出されたのは真っ赤なハイビスカスティーだ。
「蜂蜜が入っていますから飲みやすいと思いますよ?」
善意は無下にするものではない。マサキは素直にそれを受け取ると一口含む。甘い。
「なあ、さっきの話は本当なのか?」
気を取り直して状況を確認する。
「こんな状況下で嘘などついていられませんよ」
フールいわくマサキは天から降ってきた【厄災】らしい。とんでもなく呪われた存在なので「世界」のためにもそうそうに現実世界へ帰ってほしいのだとか。
「そんなこと言われてもよ、特別何かに呪われた覚えはねえんだけど」
そもそもどこをどう迷ってこの「世界」に落ちてしまったのか。それすら思い出せないのだ。
「悪霊の類いを封じるなり滅ぼすなりして怒りを買った記憶は? かなり恨まれているようですが」
「あー……いるっつうかいたっつうか、面倒くせえのが一匹いる」
悪霊の類いというか破壊神なのだが。そうか、あれが元凶か。納得した。というか納得しかできない。おのれヴォルクルス。次に会ったら絶対ぶった斬る。
「あなたがここに落ちてきたせいでこちらの『世界』もずいぶんと歪んでしまいました。本来の姿を失ってしまった住人も多い。気が触れてしまったものはそれ以上です」
「……悪ぃ」
「別に責めてはいませんよ。どうやら不可抗力のようですし、そもそもの原因はあなたを呪った存在なのですから。とにかく一休みしたら『神殿』へ向かいましょう」
「『神殿』?」
「ええ。『外』へ出るためには『神殿』を通らなくてはならないのですよ」
どうやらゲームでいうところの「ワープ」場所らしい。
「遠いのか?」
「本来であれば徒歩で三〇分もかからないのですが、『世界』のあちこちが歪んでしまった今は果たしてどれほどかかるものか」
「……そこまで変わっちまったのか?」
「いいえ、我をなくした住人たちが暴れ回ったせいで道が寸断されてしまったのです。ですから、通常の手段で進むには限界があるのですよ」
マサキはどうしようもない悔しさと無力感に唇を噛みしめる。できるものなら今すぐ土下座したい。原因があの破壊神にあるとはいえもう聞いているだけで涙が出そうだ。罪悪感で歪む顔を隠せないマサキを気づかってかフールが二杯目のハイビスカスティーを差し出す。
「あなたが現実世界に帰れば何もかも元通りになるのです。そう落ち込まないでください」
「そうは言ってもよ……」
「あなたに悪意はない。それくらいは皆理解しています。さあ、そろそろ行きましょう」
楽な行程ではない。歪んでしまった「世界」を見ればそれは一目瞭然だ。まだ遭遇していない住人たちの妨害も覚悟しなくてはならない。フールは多くの住人が狂ってしまったと言った。それがどの程度であるかは出会ってみなければわからない。
「行くしかねえか」
今この地にサイバスターはない。頼れるのは目の前の案内人とおのれ技量だけだ。
「そうそう、丸腰では心もとないでしょう。これを使ってください」
手渡された長剣は愛機のそれと同じ意匠であった。
「ありがとよ!」
俄然、やる気が出てきた。自分でも単純だと思おう。だが、くよくよしていても事態は好転しない。なら、とことんあがいてやろう。
「前向きで何よりです」
どこか横柄にうなずいて先を進む案内人にマサキはわずかに眉をひそめ、この機会にとずっと気になっていたことを尋ねてみる。
「お前本当はいくつだよ。あいつみたいなしゃべり方しやがって」
口が達者でふてぶてしく何から何までいけすかないあの男。協力関係であるときは頼もしいが敵に回したときの鬱陶しさは筆舌に尽くしがたい。
「またずいぶんな言いようですね」
「あいつがひねくれてるのが悪いんだよ」
もうちょっと素直であればこちらとて歩み寄る余地はあるというのに。
「なら、戻ってから一度話し合ってみてはいかがです?」
「あいつにこっちの話を聞く気があればな」
そのためにもまずは『神殿』にたどり着かなくては。
フールの後を追って最初にたどりついたのはキャンディの岩場だった。色とりどりのキャンディはみな星形で漂う香りはグレープ、オレンジ、ストロベリーだ。甘い物があまり得意ではないマサキにとってはなかなかの苦難である。
「ここを登り切れば街道に出ますから、そこから南下して最終的に西の大陸を目指します。『神殿』は西の果てにありますから」
「まっすぐ西には行けねえのか?」
「西に繋がる橋が落ちているのです。ですから、いったん南に進みます。南の果ては西の大陸と地続きになっていますから」
まるで羽でも生えているかのように軽々とキャンディの岩場を飛び越えていくフールとは対照的に重力に忠実なマサキは地道に岩場を登るしかない。
「なあ、今大陸って言ったけどここってどんだけ広いんだ?」
「さほど広くはありませんよ。大陸とは言いましたがそこそこ大きな島程度だと思っていただければ結構です」
フールたちの「世界」はマサキが想像しているよりずっと狭かったようだ。聞けばこの「世界」には「果て」が存在するらしい。昼はあるが夜はなく太陽はあれど月はない。とある目的のために作り出された【箱庭】
「目的って何だ?」
「さあ。私たちは何も」
ただ、何かしらの目的があるということしかわからない。誰も「答え」を知らないのだ。
「あなたを現実世界に帰せばわかるかもしれませんね」
ようやくキャンディの岩場を登り切ればそこは街道ではなく海の底であった。
水面は遙か遠く太陽は見えない。まるで真夜中だ。左右には十数メートルを越える珊瑚が大樹のごとく林立しその隙間を全長一メートル前後の熱帯魚たちが我が物顔で泳いでいる。かなりサイケデリックな模様だがあれは何という熱帯魚だろうか。
「マンダリンフィッシュですよ。見るのは初めてですか?」
「初めてだよ。つうかよ……、いや、もう覚悟はしたつもりだったんだけど」
何もここまで徹底しなくてもいいではないか。少しくらいは常識を残してくれていても罰は当たらないだろうに。
「不思議の国かよ、ここは」
「はい。不思議の国です」
ずいぶんと歪んではしまったが。
「さあ、行きましょう」
自信満々な案内人の歩みは頼もしい。マサキは抗えぬ脱力感に座り込みそうになるおのれを叱咤し、何とかその背を追うのだった。
頭上から左右から注がれる視線が痛い。あのサイケデリックな熱帯魚はまさか自分を取って食うつもりなのだろうか。
「安心してください。ここのマンダリンフィッシュは魚の卵しか食べません。襲ってきたとしてもただの好奇心ですから安全ですよ」
マサキの不安を察したフールの説明にマサキは跳び上がって悲鳴を上げる。
「襲ってくるのかよっ⁉︎」
「食べるつもりで襲ってくるわけではありませんから、適当に逃げ回っていればすぐ諦めますよ」
「まったく安心できねえ!」
再び地面に座り込んでしまったマサキにフールは冷静だった。
「難しいとは思いますが、ここにいる間は現実世界の常識は捨てておいたほうが身のためですよ」
「それができたら苦労はしねえ……」
マサキは「常識」の敬虔な信徒であった。そうかんたんに信仰は捨てられないのだ。
それからは緊張と忍耐の時間だった。主に頭上から注がれる異様な視線と気配に耐えながら歩きつづけること約三〇分。理不尽な海底世界はようやく終わりを告げ、陽の光に照らされて輝く真珠色の平原がそこには広がっていた。平原の中央にはレンガで整備された道があり、それは一直線に「世界」の果てへと続いていた。
「これが街道です。途中、南に別れる道がありますから今回はそちらに進みます」
「橋が落ちちまったんだよな?」
「ええ。ずいぶんと暴れてくれましたから」
「暴れた?」
「ああ、あれですよ。まだやっているのですね。本当に迷惑なことです」
フールが指さした先には街道から数十メートルほど離れた川のほとり。全長五メートルは超えるであろう巨大な蜘蛛とカマキリが殺意もあらわに取っ組み合っていた。マサキは絶句した。卒倒しなかったのはひとえに意地と根性のたまものである。
「誰か止めろよ、あの大怪獣大戦っ⁉︎」
あんなものが暴れていてはそれは橋も落ちるだろう。血相を変えて叫ぶマサキに対してフールはどこまでも冷静だった。
「止められないからああやって放置しているのですよ」
幸い他のものは目に入っていないようなので力尽きるまで放置しているらしい。
「いいのか、それで」
「他に方法がありませんからね。さあ、早く進みましょう」
しかし、困難とは常に降りかかるものでなるべく二匹の視界から逃れるように通り過ぎたまさにその瞬間、突然二匹が動きを止め、ゆっくりと体の向きを変える。二匹の視線の先にはあまりの殺意に凍りついたマサキが立っていた。
「……マジか?」
「ああ、そういえばどちらも肉食でしたね。もうずいぶんと長い間取っ組み合いをしていましたらさすがにお腹がすいたのでしょう」
「のんきに納得してる場合か——っ⁉︎」
「そうですね。では、走りましょう」
その巨体ゆえか幸い二匹の足は遅い。これなら十分逃げ切れるだろう。だが、食への執念恐るべし。蜘蛛の口から吐き出された糸がマサキの右足に絡みつく。
「この……、離しやがれっ‼」
信じられない力で引き倒されるがとっさに腰に差していた長剣を抜いて糸を断ち切る。とにかく一歩でも遠くに離れなければ。立ち上がる勢いのままクラウチングスタートの要領で地面を蹴る。これでも風の魔装機神操者である。スピードと瞬発力には自信があった。
「見えました。左の道に入ってください!」
目の前には二股に別れた道が。
半ば飛び込む勢いで駆け込んだ瞬間、巨大な影が迫り来る二匹を殴り飛ばす。一体どれほどの力で殴りつけたのか、二匹の怪物は原型をなくして飛び散ってしまった。
「へ?」
力尽きて座り込むマサキの正面には巨大な二体のテディベアが並んで座っていた。怪物を殴り飛ばした巨人の正体はこの愛らしいぬいぐるみであったのだ。立ち上がれば全高は三〇メートル近くになるだろうか。信じられない大きさだ。
眼鏡をかけ青いネクタイに分厚い手帳を脇に抱えたテディベアの表情はずいぶんとおっかない。まるで親の敵が目の前にいるかのようだ。その隣のテディベアは緑のネクタイに緑の帽子をかぶっていたが、こちらはまるで岩に押しつぶされたかのように右肩と両足がつぶれてしまっていた。この様子からして二匹の怪物を木っ端微塵にしたのは青いネクタイのテディベアのようだ。
「何だ……、こいつら」
「そっとしておいてください。彼らは今とても傷ついているのです」
近づこうとするマサキをフールが制止する。少し声が固い。
「お前、こいつらのこと知ってんのか?」
「ええ。彼らはこの『世界』が始まった時からずっとここにいるのです。とても心配性なのですよ」
「心配性? 知り合いでもいるのか?」
「そのようですね。あまりに心配でじっと待っていられずこちらに来てしまったと聞いています」
「へえ。ほんと心配性なんだな、こいつら。でも、おかげで助かったぜ」
「そうですね。さあ、先に進みましょう。多少歩きますがこのまままっすぐ進めば南の果てですよ」
物言わぬテディベアたちに背を向けマサキたちは足早に歩き出す。テディベアたちは黙したまま【厄災】の背をただ見送った。見送ることしかできなかった。
緑の帽子をかぶったテディベアの右肩と両足はいつの間にか真っ赤に染まっていた。
