第二話 神殿を目指して
口は災いのもと。それをまさかこんな場所で思い知ることになるとは思わなかった。地面にあぐらをかいた状態でマサキは後頭部を押さえ必死に歯をくいしばる。そうでなければあまりの痛みにのたうち回りそうだったのだ。
「自業自得ですね。花も恥じらう乙女にあれはありませんよ」
フールは呆れ果てたとばかりに肩をすくめて見せる。
「花も恥じらうっていうか、あいつら花じゃねえかよ⁉︎」
マサキはもう涙目だ。おのれが石頭であったことにこれほど感謝したのは人生で初めてではなかろうか。
「彼女たちにとって高身長は大きなコンプレックスですからね。あんな大声でそれを指摘されては激怒するのも当然です」
「それにしたって限度ってもんがあるだろうが。危うく穴だらけになるところだったんだぞ!」
マサキは腹の底からがなる。
ヒマワリに襲われたのだ。
街道沿いにあるヒマワリ畑だった。気分転換のつもりで近づいたマサキはあまりに見事なヒマワリに思わず声を上げてしまった。
「やっぱでっけえよなあ、こいつら!」
純粋に感心したのだ。だが、マサキがそう口にした途端、太陽を見上げていたヒマワリたちが一斉にマサキに向かって振り返り、次の瞬間には短機関銃のごとき勢いで種を飛ばしてきたのである。街道のレンガに次々と穴を開けていく種の集中砲火にマサキは顔色をなくして逃げ出すのが精一杯だった。
「これに懲りたらうかつなことは口にしないように」
後頭部に数発、種を食らってつんのめりそうになったマサキを連れて足早にフールが逃げ込んだのはヒマワリ畑から少し離れた崖の岩穴であった。
「そろそろ雨が降ってきそうですから絶対にここから出ないでくださいね。危ないですから」
「何だよ、今度は何が降ってくるって言うんだ?」
「説明するよりも直接目にしたほうがわかりやすいでしょう」
そう言って頭上を指さした瞬間、ドスッと音を立てて何かが地面に突き刺さる。
「まさか……⁉︎」
マサキは天を仰いだ。後頭部の痛みはすでにこの世の果てだ。歯を食いしばって痛みをこらえている場合ではない。
空から降ってきたのは一片が一〇センチ程度の角砂糖であった。そこそこの質量なのだろう。降ってくる角砂糖はそのことごくが地面に突き刺さっていた。
「以前はただの砂糖水だったのですが『世界』が狂ってしまってからはこのように角砂糖になってしまって。洞窟や家の中にでも避難していないと大けがをしてしまうのですよ」
近くに洞窟があって助かりました。のんきにのたまうフールとは対照的にマサキはもう真っ青だった。あんなものが雨として降ってきたらぼこぼこどころか全身穴だらけになっていただろう。スプラッター映画もびっくりである。
雨はどんどんひどくなっていく。もしやゲリラ豪雨だろうか。地上のあちこちに積み上げられていく角砂糖にマサキは震え上がる。
「今日はいつもより雨量が多いようですね。上がるまでしばらくかかるでしょうからこの機会に『大事なお話』をしておきましょう」
「『大事なお話』?」
「ええ、この『世界』に関するとてもとても『大事なお話』です」
以前、フールはこの【箱庭】が作られた目的がわからないと言った。だが、まったくわからないわけではないという。
「この【箱庭】が作られた理由はわかりませんが、この『世界』が作られた理由はわかります」
「【箱庭】と『世界』って同じじゃねえのか?」
てっきり同じものだと思っていた。首を傾げるマサキにフールをゆっくりと言葉を続ける。
「厳密には違います。この不思議の国は【箱庭】の中に敷かれた一枚のテクスチャ。【箱庭】の目的を円滑に達成させるための舞台装置のようなものです」
「舞台装置?」
「この【箱庭】には『底』があるのですよ。不思議の国はその『底』を覆い隠すためのテクスチャです」
【箱庭】に「底」があるなど初耳だ。確かにこれは「大事な話」に違いない。マサキは襟を正す。
「何でだよ?」
「それがとても恐ろしいものだからです」
心弱い者であればそれを目にしただけで立ち尽くし気が触れてしまう。それほどに恐ろしいものがこの【箱庭】の「底」には隠れているのだ。
「それだけ恐ろしいものなのにただ隠すだけなのか?」
もっともな疑問にけれどフールは素っ気ない。
「そうです。理由はわかりません。私たちはただの舞台装置ですから」
「……全然わけわかんねえ」
フールはこの不思議の国が【箱庭】に敷かれた一枚のテクスチャだと言った。それは【箱庭】の「底」にある恐ろしいものを隠すためであり【箱庭】が作られた目的を速やかに達成させるためだという。
「どれだけ隠したってその恐ろしいものはなくならないんだろう? 何の解決にもならないじゃねえか」
「さあ。そこまでは私にもわかりません。少なくともこの『世界』の務めは隠すことですから。それに今の私の務めはあなたを現実世界に帰すことですし」
そこでふとマサキはあることに気付く。
「聞くの忘れてたけどよ、何でお前が迎えに来たんだ?」
そうだ。当たり前のように案内されていてすっかり忘れてしまっていた。
「単純な話ですよ。私が『案内人』として設定されたキャラクターだからです。道に迷っているものがいればそれを案内するのが私の務めですから」
マサキは現実世界からこの「世界」に落ちてきた。だから、フールはマサキを現実世界に帰すためにやって来たのだ。なるほど。設定されたキャラクターか。まるで映画のようだ。
「そろそろ雨も上がったようですね」
「ようやくかよ……」
晴れ間が見えてきた空にこわばっていた全身からようやく力が抜ける。
「もう少し休みましょうか?」
「つか少し寝させてくれ。何かもういろいろ頭がついてこねえ」
そのまま地面に寝転がる。
フールと出会ってからまだ半日もたっていない。なのに不思議の国からの洗礼は次から次へとマサキに押し寄せてそのメンタルをブルドーザーのごとき勢いで削ってくる。少しくらいは手心があっていいではないか。
「そうですね。確かにあなたには負担が大きかったでしょう。見張りは私がしておきますから安心して眠ってください」
「お前は休まねえのか?」
「私には『眠る』という設定がないのですよ。不眠不休の案内人ですからね。さあ、もう眠りましょう。大丈夫。必ずあなたを現実世界へ帰して差し上げますよ」
マサキが素直に目をつむるとしばらくしてフールはローブの中からティーポットと手のひら程度の薪ストーブを取り出し、これまたどこから取り出したのか小さなトレーにそれらを並べた。
「さて、今のうちに私も一休みしておきましょうか」
切迫した状況であるとはいえ強行軍だったことは違いない。ましてや現実世界の人間にとってこの「世界」の「常識」は受け入れがたくいっそ理不尽ですらあるだろう。疲労がたまるのも当然だ。
「あなたを現実世界に戻したならすべては元通り。きっとそうなのでしょう」
だが、実際は誰も知らないのだ。マサキを現実世界に帰せばこの不思議の国は救われる。一体誰がそんなことを言い出したのか。むしろ、マサキを現実世界に戻したが最後、この「世界」は跡形もなく消え失せてしまうのではないか。そんな予感すらある。
フールは案内人だ。その「設定」上、他の住人たちよりもずっと「世界」に関する知識は多い。この不思議の国の「底」にある何かに関する情報もフールだらこそ許されたものだ。
「私は何が狂ってしまったのでしょうか」
他の住人たち同様、自分は狂っている。フールには自覚があった。狂っているからこそこの有り様なのだ。
ストローの血管を流れるバタフライピーティーがにわかに赤黒く変色する。視線を正面に固定すればそこには「司祭」が立っていた。だが、首から上はモザイクと化していてその表情はわからない。「司祭」は全身のあちらこちらが血で汚れていた。ひどい怪我を負っているようだ。
「私はあなたでしょうか。それともあなたではない『何か』でしょうか」
「司祭」は答えない。ただ黙したままそこに立ち尽くしているだけだ。フールにわかるのは「司祭」に余裕がなくとても苛立っているということだけ。そして、「司祭」こそが【箱庭】の「創造主」であった。
血で汚れ裂傷が痛々しい「司祭」の右手が示す先は西の果て。
「承知しています。ですが、彼も疲れているのです。少しでも休まなければつぶれてしまいます」
それは懇願であった。「司祭」の腕が下がる。フールの願いは受け入れられた。
「彼が目を覚ませばすぐに西の果てへ向かいます。絶対に彼を現実世界へ帰してみせます。それが私の務めですから」
「デハソ、ノ、ト、オリ……、ニ」
人の言葉を真似たそれはさびた歯車がきしむ音であった。フールはただ平伏した。それ以外にできることなど何もなかった。
マサキが目を覚ましたのはそれから四〇分ほどしてからだった。
「もう少し寝ていても大丈夫ですよ?」
「かまわねえ。状況が状況だ。こっちも早く現実世界に帰りてえからな」
「そうですか。では、先を急ぎましょう」
そうして何事もなく街道を南に下り、しばらくして七色のクレヨンを並べた城壁がマサキの目に映る。クレヨンにぐるりと囲まれているのはチョコレート色の森だった。木の葉に振りかけられているのはよく見れば七色のチョコスプレーだ。
「ここは【狂った帽子屋】の領地なのですが、この森の中では決して立ち止まらないでください」
「【狂った帽子屋】?」
「はい。帽子が大好きで出会ったものに片端からコレクションの帽子をかぶせてくるのですが」
「何だよ、可愛いもんじゃねえか」
「例えばかぶせた帽子が相手の頭よりもずっと小さかった場合、帽子のサイズに合うよう相手の頭をつぶして無理矢理かぶせてしまうのです」
「仕事しろ、倫理っ⁉︎」
狂っている。確かに狂っている。なるほどこれは立ち止まれない。マサキは今こそ自身の運動神経と体力に心の底から感謝した。中学高校、短距離走はもちろん長距離走の成績は陸上部顧問のお墨付きだ。絶対に逃げ切ってやる。
クレヨンの城壁を越えた向こう側——案の定、チョコレートで作られた森は甘ったるい匂いに満ちていてマサキは今にも吐きそうだった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃねえ。とにかく、立ち止まってられねえんだからさっさと進もうぜ」
そう言って踏み出したときだった。こつん、と何かがマサキの爪先に当たった。見ればそれは卵にタキシード着せシルクハットをかぶせた人形であった。否、忙しなく動く手足を見るにこれもまた住人の一人らしい。
「いけない。マサキ、走ってください‼」
それが【狂った帽子屋】です。フールの悲鳴に理解よりも先に足が動いた。つんのめりそうになりがらのスタートダッシュ。まさに弾丸だ。フールもまた飛ぶようにその背を追う。
まるでノミのように跳ねていた帽子屋はどうしても追いつけないと悟るとその場に座り込み、次の瞬間には突然膨張した。まるで大熊だ。しかし、頭に乗ったシルクハットは変わらずノミサイズのままであった。
「帽子」
声に出したのはその一言だけ。そして、四つん這いのまま駆け出す。ツキノワグマの時速は四〇キロ。帽子屋の速度はそれ以上であった。
「マサキ、そこの壺の奥に隠れてください。多分、間に合います!」
「間に合うって何がだよっ⁉︎」
「オクトパス卿です!」
フールは木々の根元に積まれていたいくつもの壺に手を突っ込み何かを探し始める。その間にも理解不能な咆哮を上げて帽子屋はどんどん迫ってくる。
「いました‼」
フールが壺から引きずり出したのはタキシードを着た九本足のタコであった。
「後はお任せします、オクトパス卿!」
フールは背後に迫る帽子屋に向けてオクトパス卿と呼んだタコを力一杯投げつける。
途端、帽子屋の足が止まり、帽子屋はノミのようなシルクハットをオクトパス卿にかぶせた。するとどうだろう。オクトパス卿はからだとぷるぷると震わせながらシルクハットに吸い込まれてしまった。
「……何だ、あれ」
「オクトパス卿は狭い場所がとても好きでよく【狂った帽子屋】の帽子に潜り込んでいるのですよ。それがどんなに小さい帽子であっても身を縮めて入ってしまうんです」
「いや、どう考えてもおかしいだろ。縮むとかそういうレベルじゃねえぞ、あれ」
「ここは不思議の国ですから。あなた方の常識で測ろうとすると逆に胃を痛めますよ」
「もう十分、痛めとるわ⁉︎」
とにかく危機を脱したことには違いない。満足げに帰っていく帽子屋を見送ると痛む胃を押さえながらマサキはフールに案内されるまま森を抜けたのだった。
「あれ、こいつらってあのときの二匹か?」
森を出た正面にそれはいた。
全高三〇メートルに及ぶであろう巨大なテディベア。
眼鏡をかけ青いネクタイに分厚い手帳を脇に抱えたしかめ面のテディベアと緑のネクタイに緑の帽子をかぶったテディベア。しかし、緑の帽子をかぶったテディベアの右肩と両足はなぜか真っ赤に染まっていた。
「そのようですね。どうやら彼らは『神殿』に行こうとしているようです」
「『神殿』に? 探してた奴が『神殿』にいるのか?」
「だと思いますよ。今までずっとあの場所から動きませんでしたから」
「へえ。なら、早く会えるといいな」
だが、気になるのは緑の帽子をかぶったテディベアだ。真っ赤に染まった右肩と両足はとても痛々しい。
「何があったか知らねえけどよ、あんま無理すんなよ」
そう言って隣に座る青いネクタイのテディベアを見やる。
「まあ、何だ。お前が隣にいるなら大丈夫だろうけど、ちゃんと見てろよ。あとその顔はやめろ。子どもが見たら泣くぞ」
「マサキ、そろそろ行きましょう」
「ああ、悪いな。すぐ行く」
背を向け、再び歩き出す。
西の大陸はもう目の前だった。
