第三話 めでたしめでたし
西の大陸にようやくたどり着いてからも災難は続いた。
まず、三メートル前後の巨大なアンモナイトをひたすら転がしつづけるスカラベの小隊に遭遇したのだ。その数、およそ三〇匹。それが横一列に規則正しく並んで全力疾走である。もはやロードローラーだ。逃げる術のない草花たちの断末魔に耳をふさぎながらマサキはフールの指示に従って街道沿いの大木に生えた巨大ナラタケを駆け上る。スカラベたちが通り過ぎた後にはぺらぺらになった草花たちで地面が覆い尽くされていた。
「不思議の国っつうかこれもう地獄じゃねえかよ」
「まあ、誰も彼も狂ってしまいましたからね。仕方がありません」
「……あのよ」
「あなたのせいではありませんよ。言ったでしょう。そもそもの原因はあなたを呪った邪神にある、と。あなたはそれを打ち倒しただけ。世のためです。称賛されこそすれ非難される筋合いなどない」
さあ、進みましょう。スカラベの小隊が去るのを待って再び街道を進む。
フールの話では『神殿』の周辺には一年を通して冷たい雪が降り積もりいつしか『神殿』を高い高い山の頂上へと押し上げてしまったらしい。
「雪が降ってるって……、防寒着なんか持ってねえぞ?」
「そこは安心してください」
そういって取り出したのは一つのペンダントだった。
「ティンカーベルクォーツのペンダントです。冬の妖精を粉にして固めたもので身に着けているだけで寒さを遮ります」
当然のように差し出されたそれに、しかしマサキは受け取るのを一瞬、躊躇してしまう。
「いや、妖精を粉にしたって……」
「死んだ妖精の中にはこうして宝石の材料や薬の材料になるものが多いのですよ。気にしないでください」
「……わかったよ」
背に腹はかえられない。マサキはペンダントを受け取ると素直に首にかける。直後、断末魔のごとき咆哮を上げて大地が激震する。
「何だっ⁉︎」
「——どうやら時間はあまりないようですね。急ぎましょう」
途端に固くなった声に思わずマサキは振り返る。
「フール?」
「テクスチャが——『世界』が割れようとしています。うかつでした。まさか呪いがこれほどに強力だったとは」
「割れるって……、何でわかるんだよ!」
「制限はありますが案内人としての設定上、私には『世界』に関する情報が自動的に流れてくるのですよ。今の私の務めはあなたを無事現実世界へ帰すこと。そのために必要な情報が更新された、それだけです」
呆然と立ち尽くすマサキの手を引いてフールは一気に駆け出す。背格好だけ見るならフールは一〇歳前後の少年でマサキよりずっと背も低い。だが、マサキの手を引くこの力強さは何だ。まるで成人男性のようだ。
「『神殿』はこの『世界』でもっとも清浄な場所。どれほど強力な呪いであってもそうかんたんには侵せません。『出口』は『神殿』の最上階にあります、急いでっ!」
「待てよ、『世界』が割れたらお前が言ってた『恐ろしいもの』はどうなるんだよ!」
「間違いなく『世界』に溢れ出るでしょう。そうなってはすべてがおしまいです。だから、早く元の世界へ‼」
背を振り返れば確かにあったはずの「世界」があっという間に腐り、枯れ、崩れていく。ついさっきまで色彩豊かに咲き誇り、この世の生命を謳歌していたはずの「世界」が、だ。
「そんな……、何で、こんな」
「マサキ、急いでっ‼」
黒く変色し始める街道をひたすら走りつづけてたどりついた終点は天高くそびえる氷の山脈の麓であった。
「こん……、こんなとこを登れって言うのかよ‼」
「大丈夫。『神殿』へ転移する『扉』がちゃんとあります。行きましょう」
案内された「扉」は床に敷かれた魔方陣であった。直径は二メートル程度だろうか。魔方陣にみっしりと書き込まれた咒文はどこかで見た覚えのある文字だった。
「とにかく、『神殿』についたら最上階を目指しましょう」
転移は一瞬だった。
転移した先でマサキたちを待っていたのは十数メートルはあるだろう巨大な緑水晶を組み合わせて建てられた大門であった。大門の向こうには天井に向かってどこまでも伸びる螺旋階段があり、おそらく最上階はその終着地点にあるのだろう。「神殿」はそのすべが緑水晶でできていた。
「さあ、急いで!」
マサキの手を引いて螺旋階段へと駆ける。しかし、螺旋階段に到達する寸前、凄まじい衝撃が床から天井に向かって突き抜けた。同時に神殿の床に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
「な、何だっ⁉︎」
「マサキ、手を離さないで!」
その場に尻餅をついたマサキをフールが必死に引き寄せる。
床を押し上げて花開いたのは十数メートルを超える巨大なラフレシアであった。否、それはラフレシアに擬態した軀の群れであった。
「ダメだ。『世界』が割れてしまった!」
フールの叫びは絶望に満ちていた。
「『世界』が割れたって……『底』にいたのはこいつらかよ‼」
なんておぞましい。本能でわかる。この軀の群れは死霊だ。それもただの死霊ではない。
「マサキ、早く階段を上ってください。生者のあなたが彼らに近づいたらただ食い殺されるだけではすみません!」
あなたも死霊の仲間にされてしまう。そうなってはもう現実世界には戻れない。
「さあ、早く!」
マサキが螺旋階段を上り出すのを見届けるとフールは懐から光り輝く玉を取り出し軀の群れに向かって力一杯投げつける。直後、怨嗟の断末魔が静寂の神殿をつんざいた。
「な、何だ……?」
「太陽の光をほたるの光と一緒に練って作ったランタン用の灯です。冥府の住人たちには最悪の道灯りでしょう」
呼吸を荒くするフールの手にはこぶし大の灯がまだ二つ残っていた。
「おい、……今、冥府って」
思わず螺旋階段を上る足が止まる。恐ろしい言葉を聞いてしまった。凍りつくマサキとは対照的にフールは灯を手にしたまま天を仰いで叫ぶ。たった今自分が口にした台詞に驚愕し、そしてようやく思い出したのだ。【箱庭】の創造主である「司祭」から課せられた正しい務めを。
「ああ、何てことでしょう。私はここまで狂っていたのですね。こんな機能不全を起こしていただなんて‼」
「フール?」
「ええ、ええ。思い出しました。思い出しましたとも。私はそのために生まれたのです!」
「お、おい。何だよ急に」
異様な雰囲気に後ずさるマサキに振り向くとフールは信じられない現実をマサキの顔面に叩きつけた。
「詳しく説明している時間はありません。ですから、今伝えられることを伝えられるだけお話します。マサキ、この【箱庭】の『底』にあるのは冥府です。彼らは冥府の死霊なのです」
階段の下から世のすべてを呪う怨嗟が吹き上がってくる。
妬ましい、妬ましい。許せない、許せない。心の底から呪わしい。日の光の下で当然のように生命を謳歌する者。生者。ああ、憎くて憎くて憎くて仕方がない。八つ裂きにしても飽き足らない。手足を引き抜いてしまえ、首を引きちぎってしまえ。腹を割いて血と臓腑で宴を開こう。
吹き上がる憎悪はただ一心にマサキを呪っていた。
「ここは現世と冥府の境。ここを超えた魂は二度と現世には戻れません。いいですか、気を確かにして聞いて下さい。マサキ、あなたはすでに半分死んでいるのですよ」
「——は?」
思考はそこで一瞬途切れた。冥府の死霊に意識を乗っ取られたかと思ったがそうではなかった。ただの現実逃避だった。それでもフールは無慈悲に言葉のナイフを振りかざす。生き延びるためには現実を直視しなくてはならないのだ。
「この【箱庭】は境に張られた結界。あなたが境を超えてしまわないように、一秒でも早く現世に戻れるように何重にも張り巡らされた結界の【箱庭】です」
けれどいくら結界を張り巡らせたとしても冥府が生者にもたらす「呪いと恐怖」までは防げない。冥府に充満する死臭と死霊たちの怨嗟は生者の正気をたやすくむさぼり食らってしまう。
「だから『司祭』は——いいえ『彼』はこの『世界』を敷いたのです。あなたの恐怖を可能なかぎりやわらげ一歩でも早く現世に連れ戻せるように。恐怖に満ち満ちた冥府とは正反対の世界——夢と希望に満ち溢れた不思議の国を!」
刹那、螺旋階段にもっとも近かった壁が飛び散り黄金色の巨影がマサキの視界に躍り込んでくる。
「デモンゴーレムっ⁉︎」
本来のサイズよりもずっとずっと小さくなってはいたがそれは確かに黄金のデモンゴーレムであった。デモンゴーレムは螺旋階段に体当たりしてその支柱をへし折るとそのまま落下して神殿の床に激突。跡形もなく砕け散ってしまった。
「ちくしょうっ‼」
最上階をいまだ遠くに見上げたまま螺旋階段が崩れ落ちる。眼下にひしめくのは生者を呪う死霊の群れだ。落ちたが最後、生きながら八つ裂きにされるのは間違いない。
「大丈夫ですよ、マサキ。彼らが間に合いました!」
それは絶望を前にした歓声であった。
「何が間に合ったってんだよ⁉︎」
ほとんど条件反射で怒鳴り返す。地を埋め尽くす死霊の大群が呆気なく吹き飛んだのはその直後のことだ。
「……え?」
思わず目をこする。今、一体何が起こった。
「言ったでしょう。間に合った、と。私が正気を取り戻したように彼らもようやく正しい機能を取り戻したのですよ」
死霊を容赦なく殴り飛ばし踏みつけて現れたのは二体の巨大なテディベアであった。青いネクタイをしたしかめ面のテディベアは手にした手帳で死霊たちを神殿の床ごと容赦なく叩きつぶし、粉砕していく。それはもう死霊も腰を抜かすほどの剣幕でさながら大魔神のようであった。
まるで図られたかのように緑の帽子を被ったテディベアの左肩に着地するとフールはマサキの腰に差していた長剣を取り上げ、
「彼らが来てくれたからにはもう大丈夫でしょう。これは本来の持ち主に返しておきますね」
「本来のって、え、それ……!」
マサキが腰に差していた長剣。愛機のそれと同じ意匠をした長剣をフールはまるで当然のごとく宙に放り投げる。直後、長剣は巨大な緑水晶の柱と化し、瞬きのあとには巨大な長剣へと変じて緑の帽子をかぶったテディベアの右手に収まった。
出会ったときからずっと座り込んだままであった緑の帽子のテディベアがついに立ち上がる。その右肩と両足は相変わらず真っ赤に染まっていたが長剣を振るう腕は力強く、別の壁を突き破って新たに現れたデモンゴーレムを一刀両断にしてしまった。
「え、ちょ……、待て。待った、……待て待て待て待て! 状況を整理させろ‼」
間断なく押し寄せてくる異常事態にマサキはパンク寸前だった。いくらなんでも異常で非常で異常過ぎる。もう、自分が何を言っているのかもさっぱりだ。
「残念ながらそんな暇はありませんよ。階段の復元も始まりました。さあ、行きましょう!」
緑の帽子をかぶったテディベアの左肩を足場にフールはマサキを連れて再び螺旋階段へと飛び移る。
「お前、そのマイペースほんとどうにかしろ。あいつかよっ‼」
「無理ですね。それとご心配なく。私は『彼』ではありませんので」
あとになって思う。その言葉の意味をもっとよく考えればよかった、と。けれどこの「世界」はオープニングを迎えた時点で何もかもが終わっていたのだ。
死霊たちの妨害はテディベアたちが引き受けてくれたのだろう。自動的に復元されていく螺旋階段を上りながらマサキはフールに確認する。
「なあ、あいつらは心配性なんだってお前言ってたよな」
「ええ、言いました。だから彼らは無理を押してこの『世界』降りてきたのです。機能不全を起こすことも覚悟の上で。それほどに彼らは……、一秒でも早くあなたを連れ戻したかったのでよ」
「それは……、もう、何となくわかったんだけどよ」
愛らしいテディベアになってしまった愛機はともかく、あのしかめ面のテディベアに関しては正直今でも信じられない。なぜならあの男の機体は邪神の力を宿したことはあっても精霊とはまったくの無関係であったから。
「それでも、確信はあるのでしょう?」
「……」
悔しいことに否定できない。今ならわかる。あのしかめ面のテディベアの残り香は確かにあの男のものだった。その気配も。何よりあの剣幕。
「あんなのがこの世に二人も三人もいてたまるかよ!」
「なるほど。精霊との縁がないとなれば……。そうとうな執念が込められているのでしょうね」
「いや、怖ぇよ。黄泉路ぶち抜いてくる執念って何だよ。ここに来る前に何したんだよ、おれはっ⁉︎」
きゃんきゃん騒ぐうちに頭上から光が差し込んでくる。もうすぐ最上階だ。
「……申し訳ありません」
突然立ち止まる。それは「世界」の終わりを目前にした罪人——その懺悔のようであった。
「何だよ、いきなり」
「いえ、この機会を逃すともう謝罪することもできませんので。本当に申し訳ありませんでした。私が狂わなければこんなことになる前にあなたを現実世界に送り届けられたというのに」
「そんなことかよ。仕方ねえだろ。『世界』が狂っちまったのはおれがヴォルクルスに呪われてたせいなんだから。だいたい狂ったって言っても、お前、別にそんな」
「これを見てもそう言えますか?」
かぶっていたフードを外す。
「ひっ⁉︎」
思わず悲鳴が出た。顔がなかったのだ。首の上に乗っていたのは人間の顔ではなく人間の顔の形をしたモザイクであった。
「本来であればもっと早くあなたを迎えに行けたのです。けれど私は『世界』とともに狂ってしまった。案内人として正しく機能できなかった。ヴォルクルスの呪いは『彼』の予想を遙かに超えていたのです」
結果、冥府を隠すテクスチャとして機能するはずだった不思議の国は狂ってしまった。
「『彼』はそうとう焦ったでしょう。急ごしらえとはいえ案内人として設定した私まで狂ってしまったのですから」
信じられない台詞にマサキは息をのむ。
「なあ、お前、今『彼』って……、急ごしらえって⁉︎」
「言葉通りですよ。私はその場しのぎのキャラクターとして設定された案内人です」
その首元に見えたのは見慣れたペンダント。そう、あの男がいつも身に着けていた。
「フール、お前⁉︎」
「安心してください。私は『彼』ではありません。彼のペルソナから生まれた未練の一片。正式な使い魔ですらないのです」
あっけらかんと告げるフールにマサキは声を荒げてその襟首を掴む。
「ふざけんじゃねえ! 安心なんかできるか。使い魔ですらないって、じゃあ、この『世界』がなくなっちまったらお前はどうなるんだよ‼」
「結果はすでにわかっているでしょう? この【箱庭】は『世界』はあなたを現世に引き戻すための足場であり舞台装置。それ以上でも以下でもない。役目を終えた道具は処分されるのです。どうか聞きわけてください。この結末は変えられない。変えてはいけないのです」
「だからって⁉︎」
「さあ、ここが最上階です」
立ち止まっていたはずなのにいつの間に進んでいたのだろう。そこには雲ひとつない紺碧の青空が広がっていた。
「空が……」
割れる。そしてその隙間から地上に降り注ぐのは翡翠色の羽だ。体が吸い上げられる。
「お別れです」
「フール!」
「泣いてもだめですよ。あなたのほうが私よりずっと年上でしょうに、本当に仕方がない人ですね」
鉄紺色のローブが音もなく燃えていく。ガラスの手はすでにひびだらけで真鍮の骨格もぼろぼろだ。七色の針金も錆びついてあちらこちらが切れてしまっていた。ストローの血管を流れるバタフライピーティーなどとっくに腐っている始末だ。
「さようなら、マサキ・アンドー。『彼』にとってそうであるように、私にとってもあなたは太陽のようにまぶしい人でした」
「フールっ‼」
「さようなら、マサキ。私たちのいとおしい人」
そうして急ごしらえの案内人は塵と化した。
暗転。
こうして狂った不思議の国は木っ端微塵になりましたとさ
めでたしめでたし
