WONDERLAND 【第二部 開園に向けて】

WONDERLAND
WONDERLAND長編・シリーズ

第四話(二)伸ばした手は届く、ことなく

 祭壇の間はほぼ正方形になっていた。入り口から祭壇までの直線距離はおよそ三五〇メートル。そして、入り口の幅は平均的な魔装機が三機並ぶのが精一杯だった。おそらくヴォルクルスのための「門」は別に用意されているのだろう。祭壇の中央にはナグツァートを一回り小さくしたレプリカのような機体が立っておりサルタスの機体でほぼ間違いなかった。
 祭壇の中央には二メートル近いオリハルコニウムの【聖杯】が鎮座しており、祭壇に続く階段には払い下げ品なのかバフォームとリブナニッカがそれぞれ八体。計一六体が二列を組んで道をふさぎ、さらにその手前には死霊装兵が八体とデモンゴーレムが一二体配置されていた。見ればデモンゴーレムたちは身体のあちこちが銀色に輝いており、面倒なことに鉱石を多分に含む強固な個体であった。
「……マジかよ」
 ある程度の抵抗は予想していた。だが、この狭い空間にこの物量はなんだ。まさか追い詰められることを前提に動いていたとでも言うのか。マサキは天を仰いだ。サルタスははなからこちらに勝つ気などなかったのだ。目的はただ一つ。ヴォルクルスの復活。それさえ叶えばいい。莫大な資産も社会的地位もサルタスの未練にはならなかった。サルタス・ドゴスは紛う方なき狂信者であったのだ。
「状況は常に最悪を想定して行動する。それは向こうも同じだったようですね」
 この祭壇の間は他の神殿と比べて意図的に天井が低く作られていて頭上からの攻撃は難しい。一応、ヴォルクスの降臨に支障が出ないよう二〇〇メートル程度の高さはあるようだが仮にヴォルクルスが復活した場合、全高約一〇〇メートルに及ぶヴォルクスルを全高三〇メートル近い魔装機で上空から狙うのは危険だ。そもそも今回の編成でそれだけの飛行能力と機動力を有する機体はサイバスターとグランゾンしかいない。
「ベッキー、行けるか?」
「死霊装兵までなら吹き飛ばせるだろうけど手前のデモンゴーレムが厄介だよ。あいつら鉱石の含有量が多い個体だろう? あれで壁を作られたらちょと難しいね」
 だからといってうかつに踏み込むのは危険だ。表面上、左右から挟撃される心配こそないがここは敵地のど真ん中。どんな伏兵がいるかわからない。万が一背後を取られようものなら全滅するのはこちらだ。
「しかも階段前に二列作って人間の壁かよ。ふざけた真似しやがる!」
 ガッデスとラ・ウェンターは作戦の要だ。そうかんたんには動かせない。そしてグランヴェールは二機の護衛として配置していた。だが、こうなってやむを得ない。
「ヤンロン!」
「サフィーネ、テリウス。あなたたちはガッデスとラ・ウェンターの護衛につきなさい」
「任せてもらおう」
「はい、シュウ様」
「了解」
 耐久力だけ見れば死霊装兵は強固個体のデモンゴーレムに劣る。ならば、真っ先に蹴散らすべきは。
「リューネ、メビウスジェイドだ。ありったけ撃て。セニア、頼む!」
「わかった!」
「ええ、補給は任せなさい!」
 そして、先頭に立つサイバスターのほぼ真後ろにヴァルシオーネRが。そのすぐ隣にノルス・レイがつく。
「行くよ、メビウスジェイド!」
 もとより墜とせるとは思っていない。ある程度強度を削れればいいのだ。ほぼ同時にバニティリッパーを手にしたサイバスターが飛び出す。数秒遅れて続いたのはグランワームソードを手にしたグランゾンだ。加速。正面に押し迫るデモンゴーレム二体をかわしてその背後に回り込むとそれぞれ左右から袈裟懸けに斬り捨て、次の瞬間には機体を反転させて背後に迫ってきたデモンゴーレム二体を逆袈裟懸けに斬り捨てる。これで四体。今度は斜め前方に跳躍。着地した先は残る八体のデモンゴーレムたちのちょうど中間地点だ。
「いいから、さっさと、吹っ飛び、やがれっ‼」
 サイバスターから見て正面になるデモンゴーレム一体の背中をフルスイングで斬り飛ばす。もはや剣というバット扱いである。もう一体に至っては何とその後頭部を力一杯蹴飛ばしていた。蹴飛ばされたデモンゴーレムの頭が変形して見えたのは決して見間違いではあるまい。あの脚部クローは立派な凶器。否、兵器であった。
「その下品な言い回し、いい加減どうにかなりませんか?」
 サイバスターほど乱暴ではないがグランゾンも正面のデモンゴーレム二体をまとめて横一文字に切り捨てる。上半身と下半身の泣き別れだ。
「うるせえよ。いいから正面見てろ、正面。あと終わったら覚えてろよ。ぶっ飛ばすっ‼」
 そして、残る四体と付近にいた死霊装兵をヴァルシオーネRのメビウスジェイドが追い立て。
「ヤンロン、今だ!」
「メギドフレイムっ‼」
 グランヴェールから見てほぼ直線上に追い詰められたデモンゴーレムと死霊装兵たちを火柱の龍が食らい尽くす。しかし、【聖杯】による補填が効いているのだろう。ほぼ無尽蔵に召喚されるデモンゴーレムは数を増すばかりだ。唯一の救いはその召喚速度とデモンゴーレムの移動速度が非常に遅いことだろうか。
「これではきりがない。【聖杯】を破壊できないかぎりじり貧は目に見えていますね」
「そんなことは言われなくてもわかってんだよ。てめぇも少しは考えやがれっ‼」
「おや、仲違いはいけませんよ」
 通信チャンネルに割り込んで来たのはことの元凶——サルタス・ドゴス。
「間もなくヴォルクルス様が復活されます。私の悲願はこれで成就しました。もうこの世に未練はありません。ちょうどいい機会です。あなた方も連れて逝ってさしあげましょう」
 それは嘘偽りないサルタスの本心であり善意であった。
「は、未練がない? てめぇ、自分の部下まで巻き込むつもりか!」
「ああ、それはご心配なく。彼らは刹那主義者でね。今回の任務を伝えたところ面白そうだからと快諾してくれましたよ。ええ、面白そうだからその結果などどうでもいいと」
「上司同様、部下の頭もイカれてやがる!」
 サルタスの合図とともに一六体の魔装機が二列を組んだまま前進を開始する。一斉射撃だ。機体を独自にチューンアップしたかあるいは弾自体をいじったのか。火力が本来の比ではない。
「何が悲願だ! お前みたいな腐れ野郎のために一体何人の子どもが犠牲になったと思ってやがるっ‼」
 眉をつり上げて叫ぶマサキをサルタスはまるで汚らわしい浮浪者を見るような目で吐き捨てる。
「いくどとなくヴォルクルス様を封じ込めてきた魔装機神。この世でこれほど忌々しい存在はいませんね。汚らわしい」
「汚らわしいだとっ‼」
「マサキ、相手をするならそのくらいになさい。……そろそろ時間ですよ」
「ったく。わかったよ。……おい、わかったから引っ張るな。引っ張るなって言ってんだろっ⁉︎」
 文字通りグランゾンに引っ張られる形でサイバスターが後方へと飛びすさる。
「時間?」
 サルタスの疑問は問いただすまでもなく解明された。
「じゃっじゃーん。お待たせしました! みんなのアイドル、ミ、オ、ちゃ、ん、でーすっ‼」
 魔装機の隊列が階段から五〇メートルほど離れたときだろうか。音もなく地中からその背後に出現したのはザムジードであった。
「毎回思うけどよ。地形関係なく地中移動できるって、あれ一種のチートだよな」
「ですが、対象に近づき過ぎるとセンサーで感知されてしまいますから万能とは言えないでしょう。実際、感知できたからこそこうして退避できたわけですし」
「ちょっとぉ、せっかくのファインプレーなんだからもっと褒めなさいよ。あとでスイーツビュッフェ奢らせるわよ‼」
 緊迫した現状をまるで無視したやりとりは敵味方を問わずどうしようもない疲労感と脱力感をメンタルにねじ込んでくる。敵方からしてみればこれほど神経を逆撫でするやりとりもないだろう。
「こざかしい真似をっ!」
 隊列が再び向きを変え壇上のサルタスがザムジードに襲いかかろうとしたまさにその刹那、祭壇周辺の床を亀裂の顎が噛み砕く。
「レゾナンスクエイク!」
 振動発生機を備えたザムジードの左腕が大地を穿ち、その衝撃で祭壇が崩れ落ちる。空中に投げ出される【聖杯】
「今だよ、ベッキー」
「任せな。トーテムコールっ‼」
 ラ・ウェンターから溶岩流の洗礼が打ち出され、その射線上に存在するデモンゴーレム、死霊装兵、そして隊列の向きを変えたことでこちらに背を向けていた魔装機を背後から焼き貫く。一瞬ではあるが【聖杯】に通じる障害物が完全に排除された。
「テュッティ‼」
「ええ。行くわよ、ガッデス!」
 マサキの声を合図に放たれたヨツンヘイム。凍気を帯びた水流の一矢が祭壇から放り出された【聖杯】を直撃する。
「【聖杯】がっ⁉︎」
 それはこの世の終わりを告げる絶叫であった。
 ヨツンヘイムの直撃を受けた【聖杯】は哀れ木っ端微塵に砕け散り【聖杯】を満たしていた【聖水】もまたヨツンヘイムの凍気を受けて凍りつくと同時に砕け散った。
「あ、ああ、あああああぁぁぁぁっ⁉︎」
 跡形もなく破壊された祭壇の中央。偉大なる破壊神を召喚するための魔方陣は明滅をやめ、サルタスはそれを見下ろす形で崩れ落ちる。
「何と、何……、何という⁉︎」
 デモンゴーレムこそいまだ無尽蔵に湧きつづけていたが【聖杯】が破壊された今、それもやがて尽きるだろう。トーテムコールの直撃を免れた死霊装兵とデモンゴーレムはヴァルシオーネRのメビウスジェイドとラ・ウェンターのミサイルが削り、グランヴェールのフレイムカッターがそのことごとくを両断した。
「あたしが来た意味あった?」
 ぼやいたのは最初から最後まで出番のなかったシモーヌだ。今回、修理機能を備えたザインはあくまでも損傷した機体のレストア担当として召集されていたのである。
「シモーヌの場合、活躍の場があったほうがヤバいじゃない。と言うか、補給代わってくれるならいくらでも代わるわよ? ……疲れた」
「あ、ごめん。でも、ザインに補給機能ないからさ……」
 やぶ蛇だ。シモーヌは素直に謝罪する。戦闘開始から現在に至るまでひたすらヴァルシオーネRに補給を続けていたセニアはもうへとへとだった。
「サフィーネ、テリウス」
「はい、シュウ様。特に異常ありません」
「変な魔力も感じないから大丈夫じゃないかな」
 ガッデスとラ・ウェンターの護衛とは別にサフィーネたちは背後からの襲撃にも備えていたのだ。
「ねえ、サルタスの身柄は?」
 念のため地中を移動して自陣に戻ったミオが真っ先に口を開く。サルタスの私兵たちの中には運良くトーテムコールの直撃を免れた機体もあったがいずれも損傷が激しく戦闘続行は難しいだろう。そして「最重要参考人」であるサルタスは茫然自失状態で祭壇跡地に立ち尽くしたままだった——そう、思っていたのだ。
「最初に言ったはずですよ?」
 通信パネルに割り込んで来たサルタスが手にしていたのは名刺サイズのプレート。何かのスイッチであることはすぐに知れた。
「ヴォルクルス様の復活は我が悲願。それが叶えばこの世に未練はない」
 けれど儀式は失敗に終わった。ならば、敬虔な教徒としてせめて我が身をもって神の復活に貢献するだけのこと。
「おい、お前それ……⁉︎」
 通信パネルの向こう側で男は笑っていた。絶望的な敗北と現実に打ちのめされながら、恍惚と笑っていたのだ。
「ここはヴォルクルス様が降臨される聖なる神殿。おぞましい不信心者が足を踏み入れるなど許されない。ですから、私に万が一のことがあった場合は再び閉じることにしたのです。いつか私の後を継ぐ人間がここを訪れるまで」
 その目は希望に満ちていた。赤黒い狂信という希望に。
「せめて、あなた方の一人でも道連れにできれば幸いです」
 そして砕け散るプレート。同時に入り口の天井が吹き飛ぶ。
「まさか、自爆だとっ⁉︎」
「神殿を閉じると言ったでしょう。おそらく通路をつぶすだけですよ。急ぎなさい」
「言われなくてもわかってるよっ‼」
 神殿崩壊の危険はなくとも通路がつぶされては生き埋めと同義だ。
 脱出経路確保のため神殿入り口で待機しているザッシュとファングには一定時間内に帰還しなければ相応の手はずを整えておくようあらかじめ伝えてある。だが、状況は急変した。このままでは最悪部隊ごと生き埋めだ。しかし、状況を伝えようにも邪悪な魔力に満ち満ちた神殿の奥底からでは地上との通信は不安定過ぎて話にならない。
「仕方ねえ。今はとにかく地上に出るのが先だ」
 いったん武装を解除しエネルギーをすべて推進機関へ。かかる負荷はこのさい無視だ。
「殿はおれがやる。全員一気にかっ飛ばせっ‼」
 サイバスターの機動力であれば距離などあってないも同然。生き埋めにされかかったら最悪アカシックバスターで強行突破すればいい。
 マサキをのぞく全機が一斉に速度を上げる。これならぎりぎりで間に合うだろう。それにガッデスにはまだヨツンヘイムをラ・ウェンターにはトーテムコールを一、二発撃てるだけの余力がある。仮に道をふさがれたとしても何とか突破できるはずだ。
「まったく、無茶をする」
「いちいちうるせえな。これが最善なんだよ」
「それはあなたが無事に戻れた場合の結果でしょう」
 心の底から呆れ果てたと言わんばかりの声音。そして、その発生源を理解するまで数秒。マサキは目の前の通信パネルを凝視する。すかした顔とシニカルな笑み。どこまでいってもそりの合わない男。
「何でてめぇが残ってるんだよっ‼」
 髪の毛を逆立てて吠えるマサキにシュウは冷静だった。いちいち相手をしていては話が進まない。
「嫌な予感がしたのですよ」
「嫌な予感って……」
「結果としてヴォルクルスの復活は失敗しましたが、あの【聖杯】を捧げたのです。何も起こらなかったはずがない」

 ぞるっ

 それは何かが這い出る音だった。

 ずるり ずるり
 ぴしゃん ぴしゃん
 ずるり ずるり
 ばしゃん!

 ああ、得体の知れないおぞましい何かか閉じられた果てから這い出してきた!
 そう理解した瞬間、全身からざっと血の気が引いた。
 マサキたちは地上に通じる二つ手前の階層、その階段を駆け上っている最中だった。
 気力を振り絞って振り返る。そこには階段を上ってくる何かがいた。それは腐臭であり死臭の具現であった。腐肉を溶かした血潮の塊。それにはいくつもの顔とかぎ爪が浮かび、数多の軀をより合わせた触手で壁に張りつき床に爪立て、ただ一心にマサキたちを目指していた。
「ヴォル……、クル、スっ⁉︎」
「サルタスが望んだ完全体には至らなかったものの、不完全ながら復活自体は成功していたようですね」

 ずるり ずるり
 ぴしゃん ぴしゃん
 ずるり ずるり
 ばしゃん!

 マサキたちが視界に入ったのだろう。階段を這い上るスピードが一気に跳ね上がる。あの速度ではここに到達するまで一分もかからないだろう。
 凍りつくサイバスターを押しのけるようにグランゾンが前に出る。
「おいっ⁉︎」
「そろそろ皆脱出を果たしている頃でしょう。ならば手加減の必要はありません」
 いまだ調整中とはいえ不完全体が相手ならば威力としては十分だ。
「ブラックホール……」
「馬鹿、下がれ‼」
 その刹那、グランゾンとサイバスターを円の中心として床が割れ軀の触手が溢れ出る。油断した。発射直前の強襲だ。溢れ出た触手は意思あるもののごとく絡み合い、腐肉と血を吸い上げて忌まわしい邪神の顔を作り上げる。そして牙を剥いた先は態勢を崩したグランゾン。そのコクピット。
「逃ガサヌゾ、愚カ者ドモガッ!」
「っせえ! そんなもん逃げるに決まってんだろうがっ‼」
 その横っ面を直撃したのはサイバスターの脚部クローだ。直撃を受けたヴォルクルスの顔が半分削ぎ取られゲル状の巨体が衝撃に負けてひっくり返る。
「何やってんだ、てめぇ。早く立て‼」
「言われずとも!」
 だが、態勢を立て直す直前、確かにそこに存在していたはずの邪神の姿が消えていた。かつてない悪寒に従って頭上を見上げればそこには天井と柱を噛み砕くゲル状の巨人が。
「引きますよ、マサキっ‼」
「いちいちうるせえな。それくらいわかってる!」
 しかし、ゲル状という利点を活かし邪神の執念は壁から地中の隙間から殺意の触手となって絡みついてくる。
「ああ、いい加減しつけぇ! こうなったらっ‼」
 サイバード形態で一気に突き放す。
「おい、シュウ!」
「心配無用。推進機関の出力に問題はありません」
「そうかよっ‼」
 このままでは通路の崩壊に巻き込まれるのは確実だ。加速。まさにその刹那、明らかな悪意をもって割れた天井の瓦礫が二人を分断するかのように床を直撃する。だが、躊躇してはいられない。力尽くで突破する。少なくともマサキはそのつもりだった。予想に反したのはシュウの行動だ。
「マサキっ⁉︎」
「え」
 生まれ持った魔力ゆえかあるいは王族として過酷な半生を過ごしてきた経験からか、シュウは脳裏に見たのだ。何もないはずの空間を裂いて這い出た邪悪の具現、その殺意の矛先を。
 ヴォルクスの牙がサイバスターの右肩を噛みちぎったのはグランワームソードが瓦礫を一刀両断したのとほぼ同時だった。すっくと立ち上がったゲル状の破壊神の全高はおよそ六〇メートル。そうして振り上げたかぎ爪が容赦なく引き裂き貫いたのはコクピット。
「マサキっ!」
 崩れ落ちる機体。それを邪神は容赦なく投げ捨て天井から落ちてきた瓦礫がさらにサイバスターの脚部を押しつぶす。
「マサキっ‼」
 けれど無慈悲な現実はいらえを許さず。
 ただ、沈黙のみが。
 
 覚悟はできている。そう、思っていた。
 彼は魂を削りながら命の炎を燃やしただ一心に奔りつづける人間だ。その加速にどうして人の身が耐えられるだろう。きっとそう遠くない未来、彼は私たちの誰も彼もを置いて逝く。どれほど懇願しても、誰が引きとめても。
 だから、覚悟はしていた。している、つもりだった。
 自分たちは——自分はいつか置いて逝かれる側なのだから、と。
 けれど現実には覚悟など——覚悟、など。
 何も、何も、できて、いなかった。
 ああ、愚かなこの手が今、失ったものは。

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