エンディング

WONDERLAND
WONDERLAND長編・シリーズ

番外編 第一話 うたかたびと

【泡沫人】
 水の泡のように、はかなく消えやすい命を持った人。
 
 それはただ一瞬のため、ただ一人のために生まれ、そして独りついえることを宿命られた片翼の鴉。創造主が従僕に与えた生命のチケットは片道のみであった。
 
「私は何が狂ったのでしょうか」
 案内人は自問する。
 道に迷う者を正しい場所へ送り届ける。それが案内人。それが自分だ。けれど思い出せるのはそれだけだった。
 「フール」が目覚めたとき「世界」はまだ正しく夢と希望に溢れていた。それが狂ってしまったのは空から落ちてきた「厄災」のせいだ。そして「世界」とともにフールもまた狂ってしまった。
 「厄災」の名はマサキ・アンドー。不思議の国の外側にある「現実世界」からの迷い人だった。
 フールの主人は【箱庭】の創造主である「司祭」であった。「司祭」はマサキを「現実世界」に送り帰すようフールに「務め」を課した。ゆえにフールは案内としてまた「司祭」の従僕としてマサキを迎えに行ったのだ。
「私はフールと言います。あなたを迎えに来ました、マサキ・アンドー。あなたを『現実世界』に帰して差し上げますよ」
 フールから見てマサキ・アンドーはとても危なっかしい人間だった。短気で喧嘩っ早いかと思えば冷静で慎重かつ迅速に物事を見きわめその場における最良あるいは最善を選択してみせる。素直でわがままでまるで子どものように彼は無邪気だった。不思議の国にとって彼ほどふさわしい「客人」はいなかった。
「あなたはまぶしい人ですね」
 並び歩いているはずなのにまるで太陽を見上げているような気がして一体何度ありもしない目を細めただろう。何もかもが狂ってしまった「世界」で彼だけが「正しく」そこに存在していた。その事実はフールにとっていつしか一つの「幸福」になっていた。
 案内人が迷い人を正しい場所に送り届けるのは当然の務めだ。それがどうでもよくなり始めたのはいつ頃からだろうか。
「必ずあなたをもとの『世界』へ帰してみせます。何があっても、誰を犠牲にしても」
 案内人は誰にとっても等しく案内人であるべきだ。
 少なくともフールはそう思っていた。けれど今となってはそれも過去の話だ。マサキを「現実世界」に帰す。気付けばそれがフールにとっての「すべて」になっていた。
「……これが狂った結果でしょうか」
 「司祭」はフールにマサキを「現実世界」へ送り帰すよう指示した。だから、フールの行動自体は何も間違っていない。だが、胸の内で何かが訴えるのだ。この衝動はそれだけが理由ではない、と。
「正気に返ってしまったら私はどうなるのでしょう」
 狂う以前の自分がどんな「キャラクター」であったかフールにはもう思い出せない。もしもこの感情が狂気の産物であるのならいっそ狂ったままでいたい。正気の沙汰ではなかった。その程度の冷静さはある。それでも、この「願い」は譲れない。譲りたくなかった。
「帰してみせます、絶対に」
 けれどフールの決意を嘲笑うかのように「世界」は静かにひび割れていった。【箱庭】の「底」に隠された何かはどうしようもなくマサキを憎悪していたのだ。「世界」の崩壊は「底」にうごめく「何か」たちの怨嗟と憤怒が発露した結果であった。
 キャンディの岩場を深海の珊瑚林を越えて街道を進み、『狂った帽子屋マッドハッター』の領地を抜けてようやくたどり着いた西の大陸。大小の危機はあれどここまでは無事だった。否、無事であったのはここまでだった。現実はフールたちを嘲笑うように悪辣で無慈悲であったのだ。「世界」が割れ始めたのである。
 背を振り返れば確かにあったはずの「世界」があっという間に腐り、枯れ、崩れていく。ついさっきまで色彩豊かに咲き誇り、この世の生命を謳歌していたはずの「世界」が、だ。
 フールはマサキの手を引いて走る。もう時間がない。
 「世界」の果てを目指してただ一心に駆けた。駆けて駆けて、ようやくたどり着いた神殿の最奥にそれはあった。神殿の最上階——「不思議の国」と「現実」の境へと続く唯一の螺旋階段が。
「これで、これでようやくあなたを『現実世界』に送り届けることができる!」
 朽ち逝くだけの「世界」から解放できる。それはフールにとって紛れもない歓喜だった。けれどその希望を現実は容赦なく踏みにじる。
 床を押し上げて花開いた軀のラフレシア。それは憤怒に狂う死霊の群れであった。
「マサキ、早く階段を登ってください。生者のあなたが彼らに近づいたらただ食い殺されるだけではすみません!」
 そんなことは絶対にさせない。
 マサキが螺旋階段を上り出すのを見届けるとフールは懐から光り輝く玉を取り出し軀の群れに向かって力一杯投げつける。直後、神殿をつんざく怨嗟の断末魔。
「な、何だ……?」
「太陽の光をほたるの光と一緒に練って作ったランタン用の灯です。冥府の住人たちには最悪の道灯りでしょう」 
 冥府。その言葉にはっとする。否、愕然とした。歪んでいたパズルのピースがかちりとはまる。思い出したのだ。フールは灯を手にしたまま天を仰いで叫ぶ。創造主である「司祭」から課せられた正しい務めを。
「ああ、何てことでしょう。私はここまで狂っていたのですね。こんな機能不全を起こしていただなんて‼」
「フール?」
「ええ、ええ。思い出しました。思い出しましたとも。私はそのために生まれたのです!」
 愚かな未練が生んだ愚かなペルソナ。愚者。
 ただ一瞬のため、ただ一人のために生まれ、独りついえることを宿命られた片翼の鴉。
 ようやく、ようやく思い出した。
「連れ戻すのです。何があっても誰を犠牲にしても。結果としてそれが——マサキを傷つけても」
 邪神の呪詛に引きずられ今まさに息絶えんとしている彼を今一度、黄泉路から現世へと連れ戻す。それが創造主——『彼』がフールに課した本当の正しい務め。この「世界」においてフールが導くべき存在は最初からマサキ・アンドーただ一人だったのだ。
 ああ、もっと早くもっと早く思い出せていたら。もっと早く迎えに行くことができていたら。悔しさとおのれのふがいなさに唇を噛みしめる。だが、「世界」がフールにもたらしたのは窮地だけではなかった。
「大丈夫ですよ、マサキ。彼らが間に合いました!」
 デモンゴーレムの衝突によって駆け上る螺旋階段が崩れ落ちる。けれどフールは絶望などしていなかった。自分が正しい機能を取り戻したということは「彼ら」もきっと機能不全から回復したに違いない。そして、フールの希望はそのまま現実となった。
 死霊たちを容赦なく殴り飛ばし踏みつけて現れた二体の巨大なテディベア。マサキを探し「縁」をたどってこの「世界」に下りてきた鋼の巨人たち。
「え、ちょ……、待て。待った、……待て待て待て待て! 状況を整理させろ‼」
 間断なく押し寄せてくる異常事態にマサキはパンク寸前だった。その様は見ているだけでフールの胸を痛めたがだからといって立ち止まってはいられない。
「残念ながらそんな暇はありませんよ。階段の復元も始まりました。さあ、行きましょう!」
 緑の帽子をかぶったテディベアの左肩を足場にフールはマサキを連れて再び螺旋階段へと飛び移る。
「お前、そのマイペースほんとどうにかしろ。あいつかよっ‼」
「無理ですね。それとご心配なく。私は『彼』ではありませんので」
 そう、自分は『彼』ではない。
 愚かな未練が生んだ愚かなペルソナ。その一片。
 『彼』は使い魔にすら至らなかった自分をこう名付けた——愚者フール、と。創造主が自分に与えた生命いのちのチケットは片道のみだった。
「ふざけんじゃねえ! 安心なんかできるか。使い魔ですらないって、じゃあ、この『世界』がなくなっちまったらお前はどうなるんだよ‼」
 最後、自身の正体を告げたフールにマサキは心の底から激怒した。今目の前に『彼』がいれば問答無用で殴り倒していただろう。その激情、死に瀕しながら彼は誰よりも今を「生きて」いた。
「結果はすでにわかっているでしょう? この【箱庭】は『世界』はあなたを現世に引き戻すための足場であり舞台装置。それ以上でも以下でもない。役目を終えた道具は処分されるのです。どうか聞き分けてください。この結末は変えられない。変えてはいけないのです」
「だからって⁉︎」
「さあ、ここが最上階です」
 空が、割れる。そして、地上に降り注ぐ翡翠色の羽、偉大なる風の精霊王の加護。
「お別れです」
「フール!」
「泣いてもだめですよ。あなたのほうが私よりずっと年上でしょうに、本当に仕方がない人ですね」
 ああ、彼の頬を伝い流れる滴。涙。あなたは泣いてくれるのか、悼んでくれるのか。使い魔にすら至らなかった片翼の鴉、その最期を。
 鉄紺色のローブが音もなく燃えていく。ガラスの手はすでにひびだらけで真鍮の骨格もぼろぼろだ。気づけば七色の針金も錆びだらけであちらこちらが切れてしまっていた。ストローの血管を流れるバタフライピーティーなどとっくに腐っている始末だ。
「さようなら、マサキ・アンドー。『彼』にとってそうであるように、私にとってもあなたは太陽のようにまぶしい人でした」
 私がこの世に生まれた理由、私が存在したすべて。
 未練などない。片道の生命が望んだ対価は今確かに支払われた。
「フールっ‼」
 伸ばされた手は伸ばされたまま。
「私にとって最高の終焉です」
 割れたガラスの手に宿る七色の灯。
 これは私のもの。創造主あなたではなく私の、彼が私に与えてくれた私だけの、私だけの感情。
「さようなら、マサキ。私たちのいとおしい人。——私の、いとおしい人」
 そうして急ごしらえの案内人は塵と化した。
 誰より幸福に微笑んで。

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